(画:坂内和則)
この「池にすむ水の精」を解説しているのは、
この全編を貫く心構えこそ、
生きる目的だという信念があるからなのですが、
これをどこまでいまの社会が受け入れてくれるでしょう。
結婚は不自由だから望まないという人。
結婚相手を求めて行動するなんて魂が拒否するという人。
良い相手がいるなら結婚しても良いという人。
(つまり良い人が見当たらないので独身でいるという人)
そこに行き着くまでは、
結婚したい、一生をひとりは寂しいといっていたのに。
結婚できないのではなく結婚しないのですという人。
生きることへの意味づけが違っているように思います。
また、夫婦単位で夢に取り組んでいる事例も扱うようになりました。
これはかなり進んだカップルです。
時代を牽引するふたりを見ているようです。
結婚の形態は第2次世界大戦以後、
たった70年ほどの間に大きく変化しています。
この推移は進歩であって退歩ではないとわたしは思っています。
しかしこの状況を喜び人々が果敢に挑んでいるとはどうしても思えません。
いままで結婚はふたりの合意だけではできませんでした。
家族に社会が大きく関わっていました。
いまは個人の選択と行動だけで成り立ちます。
つまり個人の決意だけで結婚はできます。
この変化に心が追いついていないというのがわたしの見方です。
この好条件を味方にできる人が少なく、
本当に身も心も裸になって異性と付き合う真摯さに、
怖じ気づいている人が多すぎると思います。
これは言ってみれば、
魂の希求の声を結婚に見ることができない、
結婚の真実を知らないのに、
結婚を考えるからなのだと思います。
では、「池にすむ水の精」に話を進めましょう。
☆.。 .:*✣ ・ °☆.。 .:* ・ °☆.。 .:*✣ ・ °☆.。
グリム童話「池にすむ水の精」9
(注:童話本文を引用したところに【】を付けることにしました)
9:【悲鳴を上げながら、手をもみあわせながら、
命よりも大事な人の名を呼んでみましたが、
もとより何の役にも立ちません。
今度は、大急ぎで、池の向こう側へ廻って、
また改めて名を呼んでみたり、
水の精を口汚くののしったりしましたが、
何の受け答えもなく、鏡のような水のおもては、
しんと静まりかえって、半分になったお月さまの顔が、
じっと動かずに、お嫁さんを見上げているばかりでした。
かわいそうに、お嫁さんは池を離れず、
早足で、息もつかずに池のまわりを、
なんべんもなんべんもぐるぐるまわるのですが、
黙っていることもあり、はげしい叫び声をあげることもあり、
すすり泣きの音(ね)をもらすこともありました。
そのうちに、とうとう精も根もつきはてて、
ばったりと地面にたおれると、ぐうぐう寝てしまいました。
すると、まもなく夢をみました。】
狩人の一大事を直感で知ったお嫁さんは、
これ以後この話の主人公となります。
つまり男女の統合において男性性の役割はこの後受動的になり、
女性性は統合のめどが立つまで積極的に主役を務めます。
夫婦生活も同じです。
結婚生活も年を重ねるにしたがい、
女性に責任が増すように思います。
社会的にと言うのではなく、
ふたりそれぞれの統合に向けて、
男性より女性の方が役割に重みが増すように思います。
結論めいたことを先に申し上げました。
もっとオブラートに包んだ言い方でお伝えしたかったのですが、
直球を投げておいた方が話にぶれが無いと思うので。
このただならない事態をひとりで受け入れて、
自分の判断で動かなければいけないと覚悟を決めるまで、
このお嫁さん案の定ジタバタします。
無理もありません。
まず『悲鳴を上げ』ます。
下腹に力を入れ声に出して大変なことが起きたと、
心の中の激情を外に出さなければ、
自分が立ち行かないことを感覚で知ったのでそれを行動に移し、
心の均衡を何とか持ちこたえようと努力します。
次に『手をもみあわせ』て、
自分の皮膚感覚で激昂している心の内を吐き出させ、
そしてバランスを取ろうと努力します。
悲鳴も手もみも激昂を外へ外へと表現する手段で、
押さえ込むためのものではありません。
激情を内側に向けて無感動を決め込んだのでも、
激情を味わわずに、
関係のない他人に向けて破壊行動を取ったのでもありません。
自分の激昂を感覚で処理することで、
激昂を昇華し、
今後に向けて行動を取れるように、
創造力を磨いているのです。
闘う相手は夫ではありません。
夫は魂磨きの同士です。
だから『水の精を口汚くののしったり』できる訳で、
この闘う相手をはっきりさせられることが大事です。
その次に夫の名を呼びます。
『命よりも大事な人の名』は夫の狩人の名のこと。
この災難は、
夫の不注意や無神経や意気地のなさや、
ひとり合点で起こしたことかもしれないのに、
このお嫁さん、夫を命よりも大事と受け取れています。
夫を『命よりも大事』と思えなければ、
夫が魂磨きのための研磨剤と思えなければ、
魂の統合という目的に向かって女性が精進することは出来ないと、
この物語は言います。
夫と妻が共に相手を『命よりも大事』と思うのではなく、
この段階では、
女性の側にそのことへの悟りが無ければならないと言っているようです。
ここでわざわざ悟りという言葉を使ったのは、
この場合女性が夫を『命より大事』と思うのは、
理解でも納得でもない、
魂が知っていることを意識に昇らせられたと思うからです。
『命よりも』に込めた意味とは、
この世での人生よりも大事なことを悟ったという意味でしょう。
このわずかな地球滞在時間で、
狩人のお嫁さんとしての区切られた人生には、
命を超えた大事な意味を夫に見ているのです。
人生を超えた聖なる約束事で成り立っている夫婦としての存在。
それが男女の結びつき。
女性の側に結婚生活がこういうものだという覚悟がなければ、
夫が命より大事にはなりにくいでしょう。
目の前の夫は不注意が過ぎ、
無神経で機微を解さず、
意気地なしかもしれません。
しかし彼との関係は魂の約束を交わした者同士。
命を超えて大事な存在です。
その覚悟だけはしっかり心の内にありました。
だから、
『とうとう精も根もつきはてて、
ばったりと地面にたおれると、
ぐうぐう寝てしまいました。
すると、まもなく夢をみました。』となる訳です。
正気でいる間は理性で、
それまでの人生経験で考えられるすべての手をやり尽くす訳です。
精も根もつきる程に。
夫を助け出すために最善を尽くしたのです。
夫の欠点をあげつらっているお嫁さんだったら、
こういうことは出来ません。
夫の欠点や弱点は大したことではないとこのお嫁さんは悟っています。
この心構えが無いと魂みがきにはなり得ない。
結婚生活が魂みがきの場になるには、
魂みがきの場にするには、
魂の戦士同士の鍛錬の場や、
修練の道場にするには、
女性の側に夫を『命よりも大事』と悟れる器量が必要となります。
封建制の暗黒時代が千年単位で続きましたが、
いまこのとき、現代は人間にふたつの性があることで魂の成長を、
本来の形で取り組める時代を迎えています。
その暗黒時代に遺産としてこの「池にすむ水の精」がつくられました。
ーつづくー