[ 天の鳥船庵だより ブログアーカイブ・2015年1月〜2023年2月 ]

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2016年08月30日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」9

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(画:坂内和則)

この「池にすむ水の精」を解説しているのは、
この全編を貫く心構えこそ、
生きる目的だという信念があるからなのですが、
これをどこまでいまの社会が受け入れてくれるでしょう。

結婚は不自由だから望まないという人。
結婚相手を求めて行動するなんて魂が拒否するという人。
良い相手がいるなら結婚しても良いという人。
(つまり良い人が見当たらないので独身でいるという人)

そこに行き着くまでは、
結婚したい、一生をひとりは寂しいといっていたのに。

結婚できないのではなく結婚しないのですという人。

生きることへの意味づけが違っているように思います。

また、夫婦単位で夢に取り組んでいる事例も扱うようになりました。
これはかなり進んだカップルです。
時代を牽引するふたりを見ているようです。

結婚の形態は第2次世界大戦以後、
たった70年ほどの間に大きく変化しています。
この推移は進歩であって退歩ではないとわたしは思っています。
しかしこの状況を喜び人々が果敢に挑んでいるとはどうしても思えません。
いままで結婚はふたりの合意だけではできませんでした。
家族に社会が大きく関わっていました。
いまは個人の選択と行動だけで成り立ちます。
つまり個人の決意だけで結婚はできます。

この変化に心が追いついていないというのがわたしの見方です。
この好条件を味方にできる人が少なく、
本当に身も心も裸になって異性と付き合う真摯さに、
怖じ気づいている人が多すぎると思います。

これは言ってみれば、
魂の希求の声を結婚に見ることができない、
結婚の真実を知らないのに、
結婚を考えるからなのだと思います。

では、「池にすむ水の精」に話を進めましょう。

☆.。 .:*✣ ・ °☆.。 .:* ・ °☆.。 .:*✣ ・ °☆.。

グリム童話「池にすむ水の精」9
(注:童話本文を引用したところに【】を付けることにしました)


9:【悲鳴を上げながら、手をもみあわせながら、
命よりも大事な人の名を呼んでみましたが、
もとより何の役にも立ちません。
今度は、大急ぎで、池の向こう側へ廻って、
また改めて名を呼んでみたり、
水の精を口汚くののしったりしましたが、
何の受け答えもなく、鏡のような水のおもては、
しんと静まりかえって、半分になったお月さまの顔が、
じっと動かずに、お嫁さんを見上げているばかりでした。
 かわいそうに、お嫁さんは池を離れず、
早足で、息もつかずに池のまわりを、
なんべんもなんべんもぐるぐるまわるのですが、
黙っていることもあり、はげしい叫び声をあげることもあり、
すすり泣きの音(ね)をもらすこともありました。
そのうちに、とうとう精も根もつきはてて、
ばったりと地面にたおれると、ぐうぐう寝てしまいました。
すると、まもなく夢をみました。】

狩人の一大事を直感で知ったお嫁さんは、
これ以後この話の主人公となります。
つまり男女の統合において男性性の役割はこの後受動的になり、
女性性は統合のめどが立つまで積極的に主役を務めます。

夫婦生活も同じです。
結婚生活も年を重ねるにしたがい、
女性に責任が増すように思います。
社会的にと言うのではなく、
ふたりそれぞれの統合に向けて、
男性より女性の方が役割に重みが増すように思います。

結論めいたことを先に申し上げました。
もっとオブラートに包んだ言い方でお伝えしたかったのですが、
直球を投げておいた方が話にぶれが無いと思うので。

このただならない事態をひとりで受け入れて、
自分の判断で動かなければいけないと覚悟を決めるまで、
このお嫁さん案の定ジタバタします。
無理もありません。
まず『悲鳴を上げ』ます。
下腹に力を入れ声に出して大変なことが起きたと、
心の中の激情を外に出さなければ、
自分が立ち行かないことを感覚で知ったのでそれを行動に移し、
心の均衡を何とか持ちこたえようと努力します。

次に『手をもみあわせ』て、
自分の皮膚感覚で激昂している心の内を吐き出させ、
そしてバランスを取ろうと努力します。
悲鳴も手もみも激昂を外へ外へと表現する手段で、
押さえ込むためのものではありません。

激情を内側に向けて無感動を決め込んだのでも、
激情を味わわずに、
関係のない他人に向けて破壊行動を取ったのでもありません。
自分の激昂を感覚で処理することで、
激昂を昇華し、
今後に向けて行動を取れるように、
創造力を磨いているのです。

闘う相手は夫ではありません。
夫は魂磨きの同士です。
だから『水の精を口汚くののしったり』できる訳で、
この闘う相手をはっきりさせられることが大事です。

その次に夫の名を呼びます。
『命よりも大事な人の名』は夫の狩人の名のこと。
この災難は、
夫の不注意や無神経や意気地のなさや、
ひとり合点で起こしたことかもしれないのに、
このお嫁さん、夫を命よりも大事と受け取れています。

夫を『命よりも大事』と思えなければ、
夫が魂磨きのための研磨剤と思えなければ、
魂の統合という目的に向かって女性が精進することは出来ないと、
この物語は言います。
夫と妻が共に相手を『命よりも大事』と思うのではなく、
この段階では、
女性の側にそのことへの悟りが無ければならないと言っているようです。
ここでわざわざ悟りという言葉を使ったのは、
この場合女性が夫を『命より大事』と思うのは、
理解でも納得でもない、
魂が知っていることを意識に昇らせられたと思うからです。
『命よりも』に込めた意味とは、
この世での人生よりも大事なことを悟ったという意味でしょう。
このわずかな地球滞在時間で、
狩人のお嫁さんとしての区切られた人生には、
命を超えた大事な意味を夫に見ているのです。
人生を超えた聖なる約束事で成り立っている夫婦としての存在。
それが男女の結びつき。
女性の側に結婚生活がこういうものだという覚悟がなければ、
夫が命より大事にはなりにくいでしょう。

目の前の夫は不注意が過ぎ、
無神経で機微を解さず、
意気地なしかもしれません。

しかし彼との関係は魂の約束を交わした者同士。
命を超えて大事な存在です。
その覚悟だけはしっかり心の内にありました。
だから、
『とうとう精も根もつきはてて、
ばったりと地面にたおれると、
ぐうぐう寝てしまいました。
すると、まもなく夢をみました。』となる訳です。

正気でいる間は理性で、
それまでの人生経験で考えられるすべての手をやり尽くす訳です。
精も根もつきる程に。
夫を助け出すために最善を尽くしたのです。
夫の欠点をあげつらっているお嫁さんだったら、
こういうことは出来ません。

夫の欠点や弱点は大したことではないとこのお嫁さんは悟っています。

この心構えが無いと魂みがきにはなり得ない。

結婚生活が魂みがきの場になるには、
魂みがきの場にするには、
魂の戦士同士の鍛錬の場や、
修練の道場にするには、
女性の側に夫を『命よりも大事』と悟れる器量が必要となります。

封建制の暗黒時代が千年単位で続きましたが、
いまこのとき、現代は人間にふたつの性があることで魂の成長を、
本来の形で取り組める時代を迎えています。

その暗黒時代に遺産としてこの「池にすむ水の精」がつくられました。


                            ーつづくー


posted by 天の鳥船庵 at 13:34 | Comment(0) | 池にすむ水の精

2016年08月23日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」8

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(21日(日)夕方の富士山)
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(22日(月)台風一過金色の夕焼けに包まれた富士山)

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」8

エドガー・ケイシーがリーディングとして残した珠玉の言葉に、
「結婚は50対50の対等の事柄であり、
あなたがたそれぞれが、
自分の内にある最上のものを相手に提供するのです。
This (marriage) is to be a fifty-fifty proposition,
with you each supplying that which is best within yourselves.
(480-20)」とあります。

夫婦の間に起こることは 「a fifty-fifty proposition」。
だがそれより、
「 supplying that which is best within yourselves」
「最上のものを相手に提供する」というのが、
結婚生活だと言うのです。

この「最上のもの」を提供するということが、
結婚生活を魂磨きとする極意だとケイシーは言うのでしょう。
兎角結婚生活は日常に埋没すると、
自分の最悪を受けとめてくれるのが結婚相手と取り違え、
鬱憤や不満のはけ口の場にしてしまいます。

この「池にすむ水の精」の狩人のお嫁さんは、
この最上のものを差し出していくのだと思います。
これからしばらくこのお嫁さんは、
結婚した相手だからこそ働かせられる、
無私の愛、無条件の愛で行動を取り続けます。
結婚は表面的には a fifty-fifty proposition。
下世話な言い方をすればお相子です。
けれど結婚を魂磨きにするのならば、
女性側の責任は不均衡なくらい重大だと思えます。

まず、女性の側に結婚を魂磨きとする哲学を持っていないと成り立ちません。
どうして夫の狩人は運命に翻弄され続け、
自分では何もできないのか。
その辺を考えるのが秘技であり、
悟性への道なのでしょう。

結婚生活は大変むずかしい段階に入ります。
女性だけが孤軍奮闘の段階に入ります。

では、池にすむ水の精に行きましょう。

☆.。 .:*✣ ・ °☆.。 .:* ・ °☆.。 .:*✣ ・ °☆.。

グリム童話「池にすむ水の精」8
(注:童話本文を引用したところに【】を付けることにしました)

【8: 日が暮れても狩人が帰ってこないので、
お嫁さんは心配して、
探しに出かけました。
それに、狩人は、かねがね、
自分は水の妖精に狙われているから用心しなきゃならない、
あの池の近所へ行く訳にはいかないのだと、
よく話をしていましたので、
さてこそ、なんぞ起こったのだと感づいて、
急いで池のところへ行ってみると、
岸に夫の獲物袋がころがっていました。
これではもう、
とんでもないことのもちあがったのを疑う訳にはいきません。】

狩人の妻をここでは「お嫁さん」と呼んでいます。
呼び名で結婚生活のステージが上がったのを知ります。
この童話は「こなひき」が主人公ではじまりました。
その息子が狩人です。
こなひきの連れ合いはおかみさん。
結婚生活のはじめの頃はこなひきで、
(互いに)心の芯に内在する才能を探究はじめると、
その結婚生活はランクアップして狩人となるわけです。

狩人は森に狩りに行き、
撃ち落とした獲物は内在の才能を手中に収めたことにとなります。
鹿はその性格から無邪気を表し、
草食動物であることを考えると、
心の栄養になるものをじっくり咀嚼する能力を持っていることもわかります。
その才能を勝ち取ったので、
野に出た鹿を一発でしとめたのでした。
無邪気は神を知るための才能。
そして問題に取り組みじっくり味わい咀嚼する能力は、
現実を学びと生きる姿勢です。
この才能を得たという一瞬の思い、
つまりこの成功で傲慢を決め込んだ途端、
身の危険を呼び込みます。
池の中に引っ張り込まれ、
水中へと狩人は消えて行きます。
ここまでが前回(7回)までのお話でした。

さて、今回は、このお嫁さん、
夫が水の精に狙われていることを、
以前から知らされています。
夫がひとりで勝手にはまり込んだ心の探究で、
夫はにっちもさっちもいかなくなっているのを、
妻がキャッチするのです。

実際の結婚生活でこれが事件や難問として、
どのように現れるかを考えてみましょう。
一般的には夫の側が結婚生活の単調さに飽いて、
趣味に走ったり、
浮気に走ったり。

下世話な言い方ですが、
夫は妻に関係ない世界で憂さ晴らしをします。
これ自体も夫に取っては自己探求と同じなのでしょう。

では下世話でない例えを使ったらどうなるかといえば、
夫が仕事で自己探求をして行くことかもしれません。
そのようなつもりになることと申し上げているのですが。

社会に向けての仕事は、
夫と妻をそれぞれを孤立させることです。
夫婦単位で取り組むのではなく、
別々の存在として活動するという意味です。
ということは、夫婦で取り組む魂みがきは、
こと仕事に携わっている間は、
魂みがきはお休み期間といえるでしょう。

「池にすむ水の精」の物語がここで伝えるのは、
結婚生活の魂みがきのこの段階で、
統合を目指す男女が、
統合を目指しながら、
別々の心情を持たざるを得ないその段階についていっています。
仕事で成果を上げることはこの世ではとてつもない評価を挙げることです。
世間的な評価は金銭から名誉名声と、
自己満足の種になります。
しかしこれは霊性を約束するものではありません。

この物語に話を戻すと、
ひとつの大事が起きたので、
ひと場面が終って次に移ることを、「日が暮れて」と言い表しています。

一組の夫婦が自分たちの統合を目指して、
結婚生活を営んでここまでくると、
話はこれまでの夫の行動から、
「お嫁さん」に焦点が移ります。

夫狩人(男性)に大事が起きると、
お嫁さんである妻(女性)はそれを感知します。
誰にいわれたのでもありません。
自分の直感に間違い無いと、
「岸に夫の獲物袋」が教えてくれるからです。
つまり明らかな証拠が手に入ります。

現実には、
結婚生活に向き合わずに、
避けている証拠が
「趣味」「浮気」「仕事」とわかったら、
どうすればよいのか分かるので、
あとはそれに取り組むだけになります。

ここまでが今回の話です。

では、ここでちょっと、
魂みがきの男と女の役割の違いを、
シンプルに読み取っていくのに、
その両性の違いを別の物語から拾ってみましょう。

「ゲド戦記W『帰還』」第8章タカ から引用します。

ゲドが闇の国から助け出した大巫女テナーが、
女呪い師のコケばばに問いかけるところから抜粋します。
巫女だのまじない師だのは、
自己探求の大切さを理解している者位に受け取って下さい。

ー引用はじめー
「わたしには男のまじない師と女のまじない師とでは、
どうして魔術が、なぜその力がちがう出方をするのかわからない。
もしも力そのものに、
魔術そのものにちがいがあるならべつだけど。」
「男は出して、女は取り入れます。」
テナーは黙っていたが、納得していなかった。
「わたしらのは、ごく小さな力で、
男たちのにくらべれば、
やっぱり劣っていると思いますよ。」コケは言った。
「ただ、女の力は地中深く根を張ります。
クロイチゴのやぶみたいに。
一方男の魔法使いの力はモミの木みたいに、
上に上に大きく、高く、堂々と伸びていきますが、
嵐がくれば倒れてしまいます。
でも、クロイチゴのやぶは
なにをもってしても根絶やしにできません。」
ー引用終わりー

この世では男は目に見える形で霊性を示すことが出来るだろう。
と、コケも言います。
またそう出来てきたと言っているように思います。
女はまじない師としての力は
男に比べて劣っているとコケばばは言いますが、
年を取ると、この劣っているという表現が気になりません。
女は根を張っているので、根絶やしされないのです。
女は神秘に近く、
それにひきかえ男の視線はいつもこの世に自分をどう表すか、
それが心を占めるからでしょう。
男に比べて女の力はこの世で言えば劣っていますが、
神のご意向を酌むのに女は男に比べて躊躇がありません。
その分この世的には劣っていないと、
この世で陰陽のバランスは取れず、
この世が女と男をひとつにする修練の場になりにくくなります。

あの世に帰ってしまえば、
魂としての有りようは性に枠付けされなくてすみますから、
性という枷が外れて、
優劣の比較は意味をなさなくなります。

ゲド戦記を引用して、
自己探求と統合に結婚生活がどのように組しているか、
或いは貢献しているか、
お読みのみなさんのご理解が深まっていますように。

                            ーつづくー



posted by 天の鳥船庵 at 09:41 | Comment(0) | 池にすむ水の精

2016年08月17日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」7

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(画:坂内和則)

前回、原子爆弾が破裂してできるきのこ雲を見た夫の夢の話をしました。
そのつづきです。
8月6日の朝ふたりで瞑想中わたしは祈りました。
「我が夫に、わたしが神の祝福の水路と受け取れるよう、
わたしをお導き下さい」と。
わたしが神さまに導かれて毎日を送っていると、
彼が受け取ってくれたら良いなと思ってのことです。
こんな風に祈ったのははじめてでした。

日々受講生や家族については祈りもしますが、
夫についてはあまり気が廻らない。
6日が広島に原爆が落ちた日であり、
今年も又広島平和記念式典として、
原爆死没者の霊を慰め 、
世界の恒久平和を祈念するための式典が
執り行なわれることに思いを馳せたのです。
艱難辛苦の経験が平和の祈りに変えられたように、
わたしたち夫婦の問題の辛さが、
わたしにこの祈りの言葉を生んでくれました。

夫の夢がわたしの心を、
この思いに導いてくれました。
正確には、祈りは日頃の自分の思いを自分で確認する行為なので、
いつも心にありながら、
言葉にする大切さを忘れていました。


☆.。 .:*✣ ・ °☆.。 .:* ・ °☆.。 .:*✣ ・ °☆.。

グリム童話「池にすむ水の精」7
(注:童話本文を引用したところに【】を付けることにしました)

7: 【あるとき、狩人は、小柄の鹿を追いかけたことがありました。
鹿は森の中から、あけっぴろげの野原へ飛び出したので、
そのあとをつけて、とうとう、一発で倒しました。
そのとき、狩人は、自分が、例のあぶない池の近くにいたことに気がつかず、
鹿の臓腑をぬいてから、池へ、血だらけの手をあらいに行ったものです。
ところが、水の中へ手を突っ込むのが早いか、
水の精が、すうっと、まっすぐに出て来て、
あはははと笑いながら、ぐしょぬれの両腕で狩人をだきかかえ、
水の中へ引き入れましたが、そのはやいこと、
わかれた波は、あっという間に、狩人の頭の上で合わさってしまいました。】

結婚のもともとの意味は、
心の陰陽の合体を目指すという意思表明です。
別の言い方をすれば、
心の意識と無意識の結合を計ろうとする覚悟が、
結婚式を挙げることです。
これが女性性と男性性の統合を目指すものです。
分かり難いかもしれませんが、
結婚生活を通して行う霊性磨きは、
あくまで一個人の心の中で行われます。

粉ひきが覚悟した意識と無意識の結合の段階は、
好きと愛しているの極みで起こした覚悟でした。
息子狩人の覚悟は、
その好きや愛しているが、
嫌いや理解できないが最高潮に達したとき、
なお意識と無意識を結合させて、
無意識を意識に呼び込もうとするものでした。
これは結婚生活の実態と見事に合致しています。

魂レベルで見ると、
結婚相手は、
自分が抱える今生のテーマを提供してくれる存在です。
相手を好きになるのは、
魂がそれを知っていると言えます。
(だから最初に相手を好ましく思えたそのポイントが、
後々とても大きな意味を持ちます。)

しかし残念というべきか、
幸運というべきか、
神の摂理・宇宙の法則は、
問題提起する者・テーマを提供してくれる者に、
恋心を感じるような仕組みになっているようです。
恋心を感じる相手を見ると勇気が出てきます。
何故って、チャレンジしようという魂の声が、
それに向かわせるのです。
その気持ちが相手を好きにさせます。

では、パートナーにはなり得ない勘違いの恋愛感情は
どう考えたら良いの?と、
疑問が湧く方にお答えすると、
本当の人生の問題に取り組まなくて良いように、
無難な相手を選んだりしているからです。
意識できないところでチャレンジを避けるからでしょう。
トラウマの成せる技ともいえます。

自分は人生にチャレンジできないと決めていれば、
相手となる人が近くに来ても恋心を抱けません。
いつも高嶺の花に恋をしています。
あるいは実を結ばない恋心を抱いて、
恋をしていると錯覚します。
自分のテーマを避けるために、
偽りの恋心を使います。
時間が経つと、
何を避けたかがわかります。

話を戻しましょう。
好きだった相手と結婚して、
それが間違いかもしれないと疑う時を迎えます。
そのときからが本当の結婚生活のはじまりです。
これが粉ひきから狩人に変わるときです。
結婚生活はここから統合の作業に入って行きます。

愛してる好き好きばかりで結婚生活は過ごせません。
相手の魂の見えなかったところが見えてきます。
その見えなかったところはこちらに取って、
テーマを提供してはくれるのだけれど不都合なところです。
身仕舞いのきれいな人と思っていたら、
予想に反してお風呂の嫌いな人だったり。
そうなると自分を棚に上げて、
相手の不甲斐なさに我慢できません。
それを何とか飲み込んで、
相手を好きと思えたそのポイントに自分の気持ちを置ければ、
この難局を乗り切ろうという勇気がわきます。
それがチャレンジのベースになります。

繰り返すと、多く人は結婚生活が長く続くと、
わたしはどうしてこの人と結婚したのかと自問します。
自問する間はまだしも、
相手の欠点をあげつらって、
仲間や子供を巻き込みます。
原因は自分たちふたりの問題。
それも魂みがきの問題なのにです。

「わたしはこの人のどこに惚れて結婚したのか」、
それを折に触れ自分に言い聞かせられれば、
結婚生活に自分がどう対処する必要があるかがわかります。
別の言い方をすれば、
恋心を感じたそのユニークさ、
誰でもないその人でなければならなかったこちらの理由、
大切に思ったその理由が、
苦境を救うことになります。
しかし実際の結婚生活では、
初心を忘れ、
ここから「死」の段階に入ります。

【「あるとき、狩人は、小柄の鹿を追いかけたことがありました」。】
ここから心の「死」がはじまります。
鹿は森が意味する無意識からの贈りもの。
鹿が象徴する無邪気さ故に危険に気付くのが遅くなります。
この無邪気さが、
無意識の波に飲み込まれる原因をつくります。

結婚生活をはじめた陽気さは無邪気が成さしめたとも言えます。
ここでいう無邪気とは相手の魂の全体像ではなく、
好ましいところばかりを見ていたことをいっています。
相手の好ましい点ばかりを見てはじまった結婚生活も、
日常生活に没頭し、
精神性がおざなりになってくると、
新鮮さが無くなり無感動になっていき、
予想に反した相手の好ましくないところに引っ掛かって、
心の死がはじまります。
好ましくないそこのところが、
魂磨きのそのポイントで魂が望んだことなのだけれど。。。。。


                            ーつづくー

posted by 天の鳥船庵 at 10:03 | Comment(0) | 池にすむ水の精