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天の鳥船庵だより

2016年08月30日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」9

DSCN2813.JPG
(画:坂内和則)

この「池にすむ水の精」を解説しているのは、
この全編を貫く心構えこそ、
生きる目的だという信念があるからなのですが、
これをどこまでいまの社会が受け入れてくれるでしょう。

結婚は不自由だから望まないという人。
結婚相手を求めて行動するなんて魂が拒否するという人。
良い相手がいるなら結婚しても良いという人。
(つまり良い人が見当たらないので独身でいるという人)

そこに行き着くまでは、
結婚したい、一生をひとりは寂しいといっていたのに。

結婚できないのではなく結婚しないのですという人。

生きることへの意味づけが違っているように思います。

また、夫婦単位で夢に取り組んでいる事例も扱うようになりました。
これはかなり進んだカップルです。
時代を牽引するふたりを見ているようです。

結婚の形態は第2次世界大戦以後、
たった70年ほどの間に大きく変化しています。
この推移は進歩であって退歩ではないとわたしは思っています。
しかしこの状況を喜び人々が果敢に挑んでいるとはどうしても思えません。
いままで結婚はふたりの合意だけではできませんでした。
家族に社会が大きく関わっていました。
いまは個人の選択と行動だけで成り立ちます。
つまり個人の決意だけで結婚はできます。

この変化に心が追いついていないというのがわたしの見方です。
この好条件を味方にできる人が少なく、
本当に身も心も裸になって異性と付き合う真摯さに、
怖じ気づいている人が多すぎると思います。

これは言ってみれば、
魂の希求の声を結婚に見ることができない、
結婚の真実を知らないのに、
結婚を考えるからなのだと思います。

では、「池にすむ水の精」に話を進めましょう。

☆.。 .:*✣ ・ °☆.。 .:* ・ °☆.。 .:*✣ ・ °☆.。

グリム童話「池にすむ水の精」9
(注:童話本文を引用したところに【】を付けることにしました)


9:【悲鳴を上げながら、手をもみあわせながら、
命よりも大事な人の名を呼んでみましたが、
もとより何の役にも立ちません。
今度は、大急ぎで、池の向こう側へ廻って、
また改めて名を呼んでみたり、
水の精を口汚くののしったりしましたが、
何の受け答えもなく、鏡のような水のおもては、
しんと静まりかえって、半分になったお月さまの顔が、
じっと動かずに、お嫁さんを見上げているばかりでした。
 かわいそうに、お嫁さんは池を離れず、
早足で、息もつかずに池のまわりを、
なんべんもなんべんもぐるぐるまわるのですが、
黙っていることもあり、はげしい叫び声をあげることもあり、
すすり泣きの音(ね)をもらすこともありました。
そのうちに、とうとう精も根もつきはてて、
ばったりと地面にたおれると、ぐうぐう寝てしまいました。
すると、まもなく夢をみました。】

狩人の一大事を直感で知ったお嫁さんは、
これ以後この話の主人公となります。
つまり男女の統合において男性性の役割はこの後受動的になり、
女性性は統合のめどが立つまで積極的に主役を務めます。

夫婦生活も同じです。
結婚生活も年を重ねるにしたがい、
女性に責任が増すように思います。
社会的にと言うのではなく、
ふたりそれぞれの統合に向けて、
男性より女性の方が役割に重みが増すように思います。

結論めいたことを先に申し上げました。
もっとオブラートに包んだ言い方でお伝えしたかったのですが、
直球を投げておいた方が話にぶれが無いと思うので。

このただならない事態をひとりで受け入れて、
自分の判断で動かなければいけないと覚悟を決めるまで、
このお嫁さん案の定ジタバタします。
無理もありません。
まず『悲鳴を上げ』ます。
下腹に力を入れ声に出して大変なことが起きたと、
心の中の激情を外に出さなければ、
自分が立ち行かないことを感覚で知ったのでそれを行動に移し、
心の均衡を何とか持ちこたえようと努力します。

次に『手をもみあわせ』て、
自分の皮膚感覚で激昂している心の内を吐き出させ、
そしてバランスを取ろうと努力します。
悲鳴も手もみも激昂を外へ外へと表現する手段で、
押さえ込むためのものではありません。

激情を内側に向けて無感動を決め込んだのでも、
激情を味わわずに、
関係のない他人に向けて破壊行動を取ったのでもありません。
自分の激昂を感覚で処理することで、
激昂を昇華し、
今後に向けて行動を取れるように、
創造力を磨いているのです。

闘う相手は夫ではありません。
夫は魂磨きの同士です。
だから『水の精を口汚くののしったり』できる訳で、
この闘う相手をはっきりさせられることが大事です。

その次に夫の名を呼びます。
『命よりも大事な人の名』は夫の狩人の名のこと。
この災難は、
夫の不注意や無神経や意気地のなさや、
ひとり合点で起こしたことかもしれないのに、
このお嫁さん、夫を命よりも大事と受け取れています。

夫を『命よりも大事』と思えなければ、
夫が魂磨きのための研磨剤と思えなければ、
魂の統合という目的に向かって女性が精進することは出来ないと、
この物語は言います。
夫と妻が共に相手を『命よりも大事』と思うのではなく、
この段階では、
女性の側にそのことへの悟りが無ければならないと言っているようです。
ここでわざわざ悟りという言葉を使ったのは、
この場合女性が夫を『命より大事』と思うのは、
理解でも納得でもない、
魂が知っていることを意識に昇らせられたと思うからです。
『命よりも』に込めた意味とは、
この世での人生よりも大事なことを悟ったという意味でしょう。
このわずかな地球滞在時間で、
狩人のお嫁さんとしての区切られた人生には、
命を超えた大事な意味を夫に見ているのです。
人生を超えた聖なる約束事で成り立っている夫婦としての存在。
それが男女の結びつき。
女性の側に結婚生活がこういうものだという覚悟がなければ、
夫が命より大事にはなりにくいでしょう。

目の前の夫は不注意が過ぎ、
無神経で機微を解さず、
意気地なしかもしれません。

しかし彼との関係は魂の約束を交わした者同士。
命を超えて大事な存在です。
その覚悟だけはしっかり心の内にありました。
だから、
『とうとう精も根もつきはてて、
ばったりと地面にたおれると、
ぐうぐう寝てしまいました。
すると、まもなく夢をみました。』となる訳です。

正気でいる間は理性で、
それまでの人生経験で考えられるすべての手をやり尽くす訳です。
精も根もつきる程に。
夫を助け出すために最善を尽くしたのです。
夫の欠点をあげつらっているお嫁さんだったら、
こういうことは出来ません。

夫の欠点や弱点は大したことではないとこのお嫁さんは悟っています。

この心構えが無いと魂みがきにはなり得ない。

結婚生活が魂みがきの場になるには、
魂みがきの場にするには、
魂の戦士同士の鍛錬の場や、
修練の道場にするには、
女性の側に夫を『命よりも大事』と悟れる器量が必要となります。

封建制の暗黒時代が千年単位で続きましたが、
いまこのとき、現代は人間にふたつの性があることで魂の成長を、
本来の形で取り組める時代を迎えています。

その暗黒時代に遺産としてこの「池にすむ水の精」がつくられました。


                            ーつづくー


posted by バンナイ at 13:34 | Comment(0) | 池にすむ水の精

2016年08月23日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」8

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(21日(日)夕方の富士山)
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(22日(月)台風一過金色の夕焼けに包まれた富士山)

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」8

エドガー・ケイシーがリーディングとして残した珠玉の言葉に、
「結婚は50対50の対等の事柄であり、
あなたがたそれぞれが、
自分の内にある最上のものを相手に提供するのです。
This (marriage) is to be a fifty-fifty proposition,
with you each supplying that which is best within yourselves.
(480-20)」とあります。

夫婦の間に起こることは 「a fifty-fifty proposition」。
だがそれより、
「 supplying that which is best within yourselves」
「最上のものを相手に提供する」というのが、
結婚生活だと言うのです。

この「最上のもの」を提供するということが、
結婚生活を魂磨きとする極意だとケイシーは言うのでしょう。
兎角結婚生活は日常に埋没すると、
自分の最悪を受けとめてくれるのが結婚相手と取り違え、
鬱憤や不満のはけ口の場にしてしまいます。

この「池にすむ水の精」の狩人のお嫁さんは、
この最上のものを差し出していくのだと思います。
これからしばらくこのお嫁さんは、
結婚した相手だからこそ働かせられる、
無私の愛、無条件の愛で行動を取り続けます。
結婚は表面的には a fifty-fifty proposition。
下世話な言い方をすればお相子です。
けれど結婚を魂磨きにするのならば、
女性側の責任は不均衡なくらい重大だと思えます。

まず、女性の側に結婚を魂磨きとする哲学を持っていないと成り立ちません。
どうして夫の狩人は運命に翻弄され続け、
自分では何もできないのか。
その辺を考えるのが秘技であり、
悟性への道なのでしょう。

結婚生活は大変むずかしい段階に入ります。
女性だけが孤軍奮闘の段階に入ります。

では、池にすむ水の精に行きましょう。

☆.。 .:*✣ ・ °☆.。 .:* ・ °☆.。 .:*✣ ・ °☆.。

グリム童話「池にすむ水の精」8
(注:童話本文を引用したところに【】を付けることにしました)

【8: 日が暮れても狩人が帰ってこないので、
お嫁さんは心配して、
探しに出かけました。
それに、狩人は、かねがね、
自分は水の妖精に狙われているから用心しなきゃならない、
あの池の近所へ行く訳にはいかないのだと、
よく話をしていましたので、
さてこそ、なんぞ起こったのだと感づいて、
急いで池のところへ行ってみると、
岸に夫の獲物袋がころがっていました。
これではもう、
とんでもないことのもちあがったのを疑う訳にはいきません。】

狩人の妻をここでは「お嫁さん」と呼んでいます。
呼び名で結婚生活のステージが上がったのを知ります。
この童話は「こなひき」が主人公ではじまりました。
その息子が狩人です。
こなひきの連れ合いはおかみさん。
結婚生活のはじめの頃はこなひきで、
(互いに)心の芯に内在する才能を探究はじめると、
その結婚生活はランクアップして狩人となるわけです。

狩人は森に狩りに行き、
撃ち落とした獲物は内在の才能を手中に収めたことにとなります。
鹿はその性格から無邪気を表し、
草食動物であることを考えると、
心の栄養になるものをじっくり咀嚼する能力を持っていることもわかります。
その才能を勝ち取ったので、
野に出た鹿を一発でしとめたのでした。
無邪気は神を知るための才能。
そして問題に取り組みじっくり味わい咀嚼する能力は、
現実を学びと生きる姿勢です。
この才能を得たという一瞬の思い、
つまりこの成功で傲慢を決め込んだ途端、
身の危険を呼び込みます。
池の中に引っ張り込まれ、
水中へと狩人は消えて行きます。
ここまでが前回(7回)までのお話でした。

さて、今回は、このお嫁さん、
夫が水の精に狙われていることを、
以前から知らされています。
夫がひとりで勝手にはまり込んだ心の探究で、
夫はにっちもさっちもいかなくなっているのを、
妻がキャッチするのです。

実際の結婚生活でこれが事件や難問として、
どのように現れるかを考えてみましょう。
一般的には夫の側が結婚生活の単調さに飽いて、
趣味に走ったり、
浮気に走ったり。

下世話な言い方ですが、
夫は妻に関係ない世界で憂さ晴らしをします。
これ自体も夫に取っては自己探求と同じなのでしょう。

では下世話でない例えを使ったらどうなるかといえば、
夫が仕事で自己探求をして行くことかもしれません。
そのようなつもりになることと申し上げているのですが。

社会に向けての仕事は、
夫と妻をそれぞれを孤立させることです。
夫婦単位で取り組むのではなく、
別々の存在として活動するという意味です。
ということは、夫婦で取り組む魂みがきは、
こと仕事に携わっている間は、
魂みがきはお休み期間といえるでしょう。

「池にすむ水の精」の物語がここで伝えるのは、
結婚生活の魂みがきのこの段階で、
統合を目指す男女が、
統合を目指しながら、
別々の心情を持たざるを得ないその段階についていっています。
仕事で成果を上げることはこの世ではとてつもない評価を挙げることです。
世間的な評価は金銭から名誉名声と、
自己満足の種になります。
しかしこれは霊性を約束するものではありません。

この物語に話を戻すと、
ひとつの大事が起きたので、
ひと場面が終って次に移ることを、「日が暮れて」と言い表しています。

一組の夫婦が自分たちの統合を目指して、
結婚生活を営んでここまでくると、
話はこれまでの夫の行動から、
「お嫁さん」に焦点が移ります。

夫狩人(男性)に大事が起きると、
お嫁さんである妻(女性)はそれを感知します。
誰にいわれたのでもありません。
自分の直感に間違い無いと、
「岸に夫の獲物袋」が教えてくれるからです。
つまり明らかな証拠が手に入ります。

現実には、
結婚生活に向き合わずに、
避けている証拠が
「趣味」「浮気」「仕事」とわかったら、
どうすればよいのか分かるので、
あとはそれに取り組むだけになります。

ここまでが今回の話です。

では、ここでちょっと、
魂みがきの男と女の役割の違いを、
シンプルに読み取っていくのに、
その両性の違いを別の物語から拾ってみましょう。

「ゲド戦記W『帰還』」第8章タカ から引用します。

ゲドが闇の国から助け出した大巫女テナーが、
女呪い師のコケばばに問いかけるところから抜粋します。
巫女だのまじない師だのは、
自己探求の大切さを理解している者位に受け取って下さい。

ー引用はじめー
「わたしには男のまじない師と女のまじない師とでは、
どうして魔術が、なぜその力がちがう出方をするのかわからない。
もしも力そのものに、
魔術そのものにちがいがあるならべつだけど。」
「男は出して、女は取り入れます。」
テナーは黙っていたが、納得していなかった。
「わたしらのは、ごく小さな力で、
男たちのにくらべれば、
やっぱり劣っていると思いますよ。」コケは言った。
「ただ、女の力は地中深く根を張ります。
クロイチゴのやぶみたいに。
一方男の魔法使いの力はモミの木みたいに、
上に上に大きく、高く、堂々と伸びていきますが、
嵐がくれば倒れてしまいます。
でも、クロイチゴのやぶは
なにをもってしても根絶やしにできません。」
ー引用終わりー

この世では男は目に見える形で霊性を示すことが出来るだろう。
と、コケも言います。
またそう出来てきたと言っているように思います。
女はまじない師としての力は
男に比べて劣っているとコケばばは言いますが、
年を取ると、この劣っているという表現が気になりません。
女は根を張っているので、根絶やしされないのです。
女は神秘に近く、
それにひきかえ男の視線はいつもこの世に自分をどう表すか、
それが心を占めるからでしょう。
男に比べて女の力はこの世で言えば劣っていますが、
神のご意向を酌むのに女は男に比べて躊躇がありません。
その分この世的には劣っていないと、
この世で陰陽のバランスは取れず、
この世が女と男をひとつにする修練の場になりにくくなります。

あの世に帰ってしまえば、
魂としての有りようは性に枠付けされなくてすみますから、
性という枷が外れて、
優劣の比較は意味をなさなくなります。

ゲド戦記を引用して、
自己探求と統合に結婚生活がどのように組しているか、
或いは貢献しているか、
お読みのみなさんのご理解が深まっていますように。

                            ーつづくー



posted by バンナイ at 09:41 | Comment(0) | 池にすむ水の精

2016年08月17日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」7

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(画:坂内和則)

前回、原子爆弾が破裂してできるきのこ雲を見た夫の夢の話をしました。
そのつづきです。
8月6日の朝ふたりで瞑想中わたしは祈りました。
「我が夫に、わたしが神の祝福の水路と受け取れるよう、
わたしをお導き下さい」と。
わたしが神さまに導かれて毎日を送っていると、
彼が受け取ってくれたら良いなと思ってのことです。
こんな風に祈ったのははじめてでした。

日々受講生や家族については祈りもしますが、
夫についてはあまり気が廻らない。
6日が広島に原爆が落ちた日であり、
今年も又広島平和記念式典として、
原爆死没者の霊を慰め 、
世界の恒久平和を祈念するための式典が
執り行なわれることに思いを馳せたのです。
艱難辛苦の経験が平和の祈りに変えられたように、
わたしたち夫婦の問題の辛さが、
わたしにこの祈りの言葉を生んでくれました。

夫の夢がわたしの心を、
この思いに導いてくれました。
正確には、祈りは日頃の自分の思いを自分で確認する行為なので、
いつも心にありながら、
言葉にする大切さを忘れていました。


☆.。 .:*✣ ・ °☆.。 .:* ・ °☆.。 .:*✣ ・ °☆.。

グリム童話「池にすむ水の精」7
(注:童話本文を引用したところに【】を付けることにしました)

7: 【あるとき、狩人は、小柄の鹿を追いかけたことがありました。
鹿は森の中から、あけっぴろげの野原へ飛び出したので、
そのあとをつけて、とうとう、一発で倒しました。
そのとき、狩人は、自分が、例のあぶない池の近くにいたことに気がつかず、
鹿の臓腑をぬいてから、池へ、血だらけの手をあらいに行ったものです。
ところが、水の中へ手を突っ込むのが早いか、
水の精が、すうっと、まっすぐに出て来て、
あはははと笑いながら、ぐしょぬれの両腕で狩人をだきかかえ、
水の中へ引き入れましたが、そのはやいこと、
わかれた波は、あっという間に、狩人の頭の上で合わさってしまいました。】

結婚のもともとの意味は、
心の陰陽の合体を目指すという意思表明です。
別の言い方をすれば、
心の意識と無意識の結合を計ろうとする覚悟が、
結婚式を挙げることです。
これが女性性と男性性の統合を目指すものです。
分かり難いかもしれませんが、
結婚生活を通して行う霊性磨きは、
あくまで一個人の心の中で行われます。

粉ひきが覚悟した意識と無意識の結合の段階は、
好きと愛しているの極みで起こした覚悟でした。
息子狩人の覚悟は、
その好きや愛しているが、
嫌いや理解できないが最高潮に達したとき、
なお意識と無意識を結合させて、
無意識を意識に呼び込もうとするものでした。
これは結婚生活の実態と見事に合致しています。

魂レベルで見ると、
結婚相手は、
自分が抱える今生のテーマを提供してくれる存在です。
相手を好きになるのは、
魂がそれを知っていると言えます。
(だから最初に相手を好ましく思えたそのポイントが、
後々とても大きな意味を持ちます。)

しかし残念というべきか、
幸運というべきか、
神の摂理・宇宙の法則は、
問題提起する者・テーマを提供してくれる者に、
恋心を感じるような仕組みになっているようです。
恋心を感じる相手を見ると勇気が出てきます。
何故って、チャレンジしようという魂の声が、
それに向かわせるのです。
その気持ちが相手を好きにさせます。

では、パートナーにはなり得ない勘違いの恋愛感情は
どう考えたら良いの?と、
疑問が湧く方にお答えすると、
本当の人生の問題に取り組まなくて良いように、
無難な相手を選んだりしているからです。
意識できないところでチャレンジを避けるからでしょう。
トラウマの成せる技ともいえます。

自分は人生にチャレンジできないと決めていれば、
相手となる人が近くに来ても恋心を抱けません。
いつも高嶺の花に恋をしています。
あるいは実を結ばない恋心を抱いて、
恋をしていると錯覚します。
自分のテーマを避けるために、
偽りの恋心を使います。
時間が経つと、
何を避けたかがわかります。

話を戻しましょう。
好きだった相手と結婚して、
それが間違いかもしれないと疑う時を迎えます。
そのときからが本当の結婚生活のはじまりです。
これが粉ひきから狩人に変わるときです。
結婚生活はここから統合の作業に入って行きます。

愛してる好き好きばかりで結婚生活は過ごせません。
相手の魂の見えなかったところが見えてきます。
その見えなかったところはこちらに取って、
テーマを提供してはくれるのだけれど不都合なところです。
身仕舞いのきれいな人と思っていたら、
予想に反してお風呂の嫌いな人だったり。
そうなると自分を棚に上げて、
相手の不甲斐なさに我慢できません。
それを何とか飲み込んで、
相手を好きと思えたそのポイントに自分の気持ちを置ければ、
この難局を乗り切ろうという勇気がわきます。
それがチャレンジのベースになります。

繰り返すと、多く人は結婚生活が長く続くと、
わたしはどうしてこの人と結婚したのかと自問します。
自問する間はまだしも、
相手の欠点をあげつらって、
仲間や子供を巻き込みます。
原因は自分たちふたりの問題。
それも魂みがきの問題なのにです。

「わたしはこの人のどこに惚れて結婚したのか」、
それを折に触れ自分に言い聞かせられれば、
結婚生活に自分がどう対処する必要があるかがわかります。
別の言い方をすれば、
恋心を感じたそのユニークさ、
誰でもないその人でなければならなかったこちらの理由、
大切に思ったその理由が、
苦境を救うことになります。
しかし実際の結婚生活では、
初心を忘れ、
ここから「死」の段階に入ります。

【「あるとき、狩人は、小柄の鹿を追いかけたことがありました」。】
ここから心の「死」がはじまります。
鹿は森が意味する無意識からの贈りもの。
鹿が象徴する無邪気さ故に危険に気付くのが遅くなります。
この無邪気さが、
無意識の波に飲み込まれる原因をつくります。

結婚生活をはじめた陽気さは無邪気が成さしめたとも言えます。
ここでいう無邪気とは相手の魂の全体像ではなく、
好ましいところばかりを見ていたことをいっています。
相手の好ましい点ばかりを見てはじまった結婚生活も、
日常生活に没頭し、
精神性がおざなりになってくると、
新鮮さが無くなり無感動になっていき、
予想に反した相手の好ましくないところに引っ掛かって、
心の死がはじまります。
好ましくないそこのところが、
魂磨きのそのポイントで魂が望んだことなのだけれど。。。。。


                            ーつづくー

posted by バンナイ at 10:03 | Comment(0) | 池にすむ水の精

2016年08月03日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」6

DSC00327.JPG
(画:坂内和則)

わたくしごとで恐縮ですが2月に胃腸風邪を引き、
以後、低空飛行と足踏み状態を余儀なくされ、
それが後を引いて、
ここに来て洞穴に迷い込んだ気分になっていました。
出口が見つからない。。。。。

そんなとき光が見えたのです。
これ以上の谷底はあり得ないというわたしたち夫婦が見た夢。
それが光になってくれました。
夫は原子爆弾が爆発してキノコ雲を見る夢。
わたしは日本列島が沈没し、
それとともに命を全うしようと覚悟する夢です。

これが何で光り?
と、思われますか。
夫は常に自分の不甲斐なさの発露に苦渋してきました。
そのアドレナリンを、
もう原子爆弾の破裂という形にしなくてもいいでしょという提案が、
この夢の本意。
わたしはこの体を、
あと数年仕事を続けられるようにケアーし続けなくてはいけない。
けれどそれにはいままでのやり方では叶わない。
ここからは更なる体の再生能力を信じて、
細胞のひとつひとつがすっかり入れ替わるほどに、
健康を取り戻す手段を講じなくてはいけない。

それが、このふたつの夢の意味だと夢の専門家は思う訳です。
夢夢この夢が日本の天災を予知した夢だと受け取らないで下さいね。
夢は霊的言葉。
夢主の生き方に対するメッセージと受け取ってこそ、
夢は生きてきます。
夢は夢主と一心同体。
刻一刻と生きているこの肉体とその霊と渾然一体となっています。
この最終局面と思える夢は、
これを受け取れるふたりになっているという証しです。
だからこのふたつの夢は光だと思うのです。
夫は自分の態度は生産的でないと自覚ができるようになって、
夢では原子爆弾となりました。
わたしは自分の不調にどう対処したらよいかを理解できて、
こうした夢にはなりました。

もし、氷山が溶け出した夢を見たら、
地球温暖化のつけが現実化する予知夢と安直に思わないで下さいね。
あなたが長年に渡って心凍らせてきた、
その部分を溶かす好機がやってくると受け取って下さい。
その好機を見逃さないようにしましょう。
その好機を見逃さないようにと言う意味では予知夢ではあるけれど、
社会現象を先取りして夢に見ただけと、
夢の本当をやり過ごしたら勿体ないことです。

さて、夢の提案を何処まで実行できるかわかりませんが、
夢の意を酌みほんの少しでも実行できれば、
その恩恵は倍返しほどに下されるでしょう。
それがいままでの経験ですから。


☆.。 .:*✣ ・ °☆.。 .:* ・ °☆.。 .:*✣ ・ °☆.。

グリム童話「池にすむ水の精」6
(注:童話本文を引用したところに【】を付けることにしました)

【6:「気をおつけよ、おまえがあのお池へさわると、
水の中からお手手がにゅうっと出て、
おまえをつかんで、
お池のなかへずるずるっと引きずりこんじまうよ」
こう言って子どもに言いきかせておきましたが、
何年たっても、
水の精はそれきり姿を見せなかったものですから、
こちらも、だんだん安心するようになりました。
男の子は、背丈が伸びていっぱしの若者になり、
狩人のとこに年季を入れました。
やがて修業がすんで、
たいそう伎倆(うで)の良い狩人になったので、
村の庄屋さまがおかかえにしました。
村に、器量良しで誠実(じつ)のある娘がいて、
これを、狩人がかわいくおもっていたのですが、
ご主人がそれに気がついて、若者に小さな家を一軒やりました。
ふたりは結婚式を挙げて、
心の底から愛し合い、おちついた、
幸せな日を送りむかえることになりました。】

自分が勝手にしてしまった約束は、
愛の結晶の息子を水の精に差し出すことでした。

その息子に【「気をおつけよ、おまえがあのお池へさわると、
水の中からお手手がにゅうっと出て、
おまえをつかんで、
お池のなかへずるずるっと引きずりこんじまうよ」】と、
粉ひきは息子に起きることを仔細に説明します。

しつこいようですが、息子は蜜月が創造したものです。
お互いへの投影は美しく、
まだ相手の欠点に目が行かないときに得たチャレンジすべきものです。

粉ひきは精神世界全部を体験した訳ではありません。
息子に言い聞かせる忠告は、
心についての自分の理解の浅さを表現しています。
自分が精神の奥深さや怖さを理解できていないと知っているので、
自分の新しいチャレンジに弾みを付ける訳にいかず、
おっかなびっくりで精神世界の縁を行き来しています。

自己を探究するものが粉ひきです。
自己を探究すると気付いたものが粉ひきです。
人生を自己探求と捉えたものの象徴として「粉ひき」を、
このおとぎ話では使っています。

その粉ひきが生み出した息子が、
やがて狩人になります。
狩人は森の中の獲物を捕まえて生業にします。
この生業を持つというところが大切です。
生きるための技は習得しないと生きていけません。
今風にいえば、サバイバル術とでも言いましょうか。

それに加えて狩人の意味は、
この世を生きると決めて生き、
自分の才能みがきに精を出すと決めたチャレンジを意味します。
森の中には鉱脈があり、
鉱脈の中には貴石や宝石が埋まっています。
珍しい貴重な石(宝石)は才能を意味します。

人生を自己探求と捉えると、
その熱意が自分が持っている才能に気付かせ、
それをさらに開発する方法を探し始めます。
そのプロセスが狩人の年季をおさめ、
村の庄屋の認めるところとなります。

この道、これで大丈夫と自信がついたとき、
心の中で変容が起きます。
それが結婚です。

この物語が粉ひきから狩人へ話が移っているのは、
自己探求がはじまり、
ある程度過ごすと、
自分の才能を磨くことにプロセスが移行すると説いているようです。

この世にあって自分が他者に提供できるものが才能です。
その才能に自信を覚えると、
つまり自分を信じられると、
自分へ愛が生まれ自信がついたことになります。
それをここでは結婚という形で説明しています。

この辺の話の流れと象徴性は感動ものです。
自己探求がそれに相応しい進歩を辿っているなら、
自分本来の社会への奉仕の形が見えてくると言っているのですから。

実際の結婚もその二つの意味があります。
男女が結婚することで、
ふたりは社会に認められます。
そしてふたりは社会に奉仕する責任を負います。

多くの人は、
折角自己探求に取り組みながら、
自己に関わり過ぎ、
社会への奉仕を世俗のことと軽く見がちです。

自己探求は自分だけの作業ですが、
それが進めば、
外へ向けては奉仕であるとこの物語は言っているように思います。
しかし、これもまたプロセスです。

夫への従属からグレートマザーへの女(女性性)の自立は、
心の陰陽の結婚(統合)が二段階で進むことで、
自分の才能を社会に向けて表現する次の段階に進めます。

この段階を経て、
いよいよ結婚の本番がはじまります。

さてここでちょっと余録です。
粉ひきの息子が狩人となっていく心の変容を、
日本古来の象徴を使って説明することもできるだろうと思っています。
「森」は日本人に取っては鎮守の森です。
鎮守の森は神さまがご意向をくださるその為の場所です。
天から神意を携えてやってくるお使いが留まる木が鳥居です。
「森」は「鎮守の森」であり、
神意を知ることが狩人の役目と成ります。
近年鳥居の夢が多く報告されます。
狩人は神の鳥を捕まえる役。
これは男性性の役目だと分かります。
舌足らずですが、余録はここまでと致しましょう。

次回をお楽しみに。


                            ーつづくー


posted by バンナイ at 12:15 | Comment(0) | 池にすむ水の精

2016年08月01日

二重で背中合わせに色が並んだ虹

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昨日の夕方6時頃七里ケ浜から三浦半島を眺めた上空に浮かんだ二重の虹です。
写真に映るのか危ぶみながらシャッターを切ってみました。
左の虹はいつも通りに外側が赤。
でも、右側は外側が青く見えます。
肉眼では笑っちゃうほど鮮明に。
こんなことってあるのですね。

夫婦生活は常に二本の線路で平行線。
この虹を見て、
あらまあ、わたしたちの夫婦生活も、
外目の次元を超えた目で見れば、
この虹のように美しく奇特に見えるでしょうか。
我の心で見ていると平行線。
真我の目で見れば、美しいシンメトリーの曲線が踊っている。

と、思わせてくれるほっとしたひとときでした。
posted by バンナイ at 09:41 | Comment(0) | あれこれ
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