[ 天の鳥船庵だより ブログアーカイブ・2015年1月〜2023年2月 ]

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2016年12月28日

今年の初夢はきつかった

今年の初夢はきつかった.JPG
(江島神社わだつみの神)

今年のわたしの初夢が、
この一年を通してどのように意味があったかをお話ししましょう。
毎年初夢を見るのを楽しみにしています。
初夢がその年の心構えを教えてくれるし、
方向性が見えるので、楽観的になれるからです。
しかし今年の初夢は、
見なかったことにしたいと思ったほど、
例年にないものでした。

夢は、
「まっ白なワンピースにシミがあるので、
そのシミを抜こうと、
溶剤を溶かしたバケツに入れたところ、
バケツの水を床にこぼしてしまう」というのです。

芳しい夢ではありません。
でもこの初夢を見なかったことにはできない。
深呼吸をしながら、
この夢を受け入れようと覚悟を決めました。

服にシミは、態度を改める必要をいいます。
その為の感情の浄化に失敗し、
床を汚すのですから、
下半身のどこかに症状が出るという予知的なメッセージもあります。

2月11日に車で1時間ほどの街に買い物に出ました。
穏やかでも底冷えのする日でした。
車を駐車場に置いて、
午前中の人影まばらな街を散策がてら歩いているうちに、
突然気分が悪くなり、
吐き気を覚え震えが来たのを覚えています。
ゆっくり歩きながら、
なんとかこの場をやり過ごし、ことなきを得たい。
そばにいる夫のオロオロした姿に、
いっそう自分を制したいと思ったことです。

吐いてしまえば、
落ち着きを取り戻し、
しばらく休憩をして運転に支障も無く家に帰り着きました。

軽い胃腸風邪だったようで大事にはなりませんでしたが、
これが初夢がいう身体から始まった浄化の第一弾でした。

以後、春遅く膀胱炎で2日入院したり、
夏は寒暖の差に必死のおもいで過していたように思います。
それが11月初めに又膀胱炎をぶり返し、
やっと12月も下旬になって、
症状に悩まされなくなり、
自分の身体を取り戻せているところです。

11月の膀胱炎のぶり返しの2日前、
最終試験を受けて答案にとりかかる夢を見ています。
作業は遅遅と進まない様子ですが、
答えは知っていると思っています。

私はこの一生を通じて、
身体を通して霊性を学ぶ道を選びました。
子供の頃大病をするたびに、
身体が甲冑と思えて、
その不自由さに難儀しました。
今年の学びは要らぬ思いが心を占拠するが否や、
身体の弱いところを集中攻撃する、
その心と身体のメカニズムを理解させられたような気がします。
子供の頃は何故病気になるのか分かりませんでしたが、
今年の経験は、
正にタイムラグのない心と身体の直結を体験したのです。

そのトリガーが夫のイライラをかわせない私の霊性の弱さにあります。
夫もわたしも、
どちらも発展途上の魂が互いを磨き砂に生活している訳ですから、
ときに痛みを伴うのは当たり前でも所詮は別の魂。
磨き合うのは自らの気付きでしかし得ない作業なのに、
相手のいらだちに不満があるので、
相手の問題と自分の問題を別にできない。
相手のいらだちを自分に向けられたものと受け取るのでそれがかわせない。
そんな霊性のありようを知らされる必要がわたしにあった訳です。

身体と心が直結しているのを、
無理にでも理解するようにと、
症状になるのを克明に見させられた一年でした。

症状が出ても取り立てて仕事に差し障りがないように、
仕事と仕事の合間を上手にすり抜けて病状が現れるのを、
神さまとわたしの魂が相談して、
わたしに気付きをもたらそうと画策していたように思えます。

今年の初夢を振り返ると、
シミはシミ程度の大きさで、
ワンピースを処分しなければならないほどのものでもありません。
床にこぼれた溶液も大量ではなく、
雑巾一枚で方がつくくらいのものです。
大事には至らないと初夢は教えてくれていました。
こうして今年の初夢が教えてくれたテーマの経緯を考えれば、
物事はそれほど大事ではありませんでした。

この初夢の楽観的なところを、
もっと仔細に検討しておけば良かったと反省しています。

さて、こうして2016年を、
ちょっと厳しかった、
身体と心の折り合いが付け難かった、
あるいはわたしのように心と身体のメカニズムを教えられた1年だったと、
納得されている方々には、
これに続く2017年は、
心と身体をひとつに活動できる年になっていくだろうと思っています。
これは、これ迄がどうあれ、
自分のペースを捉え、
自分の好きを本分に楽観的に行動できれば、
創造の年になるという展望を持ってのことです。

来年の初夢からメッセージを読み取る、
初夢ワークショップを開きます。
お問い合わせはこちらです。


posted by 天の鳥船庵 at 11:28 | Comment(0) | 夢の活用法

2016年12月26日

養成講座11期石川千佳子講師を迎えて

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一昨日のクリスマスイブは
石川千佳子講師を迎えて養成講座のみなさんと食事を共にしました。

いつも千佳子講師をお迎えした日は、
食事を共にするようになりました。
千佳子講師の授業内容は、
受講生にとってもわたしにとってもいつも以上に濃厚なので、
遠路帰宅する前にみなさんも一緒に一息入れたいとはじめたことです。
それも一品持ちよりの食事会です。
受講生はレポート作成と他のケースの読み込みを済ませ、
その上で一品をこの日のために用意する訳です。

当日石川千佳子講師は、
医療現場をソーシャルワーカーとして25年以上の経験をもとに、
受講生が提出した逐語訳レポートを読み込んでおいてくれます。
その上で天の鳥船庵においでになって、
ケースカンファレンスとスーパーバイズを、
グループの力動のなかでしてくれます。
千佳子講師がおっしゃるには、
夢が媒体なのでこういう方式が成り立つのだそうです。

千佳子講師の言葉はソフトで心地よく、
独特の緩急がおありでその着眼点の鋭さに誰もがショックを受けます。
それは心地よいショックです。
心地よいショックなので、
素直に誰もがそれを受け入れてみようと思えます。

この講座の目指すところは、
自分が他人にどういう態度で接しているかを知ることです。
それを知った上で、
自分が自分をどう扱う必要があり、
自分が目指すこれからの方向を考えることです。

写真のみなさんのお顔は、
濃厚な一日を無事に終えた高揚感と安堵感で輝いています。


posted by 天の鳥船庵 at 07:17 | Comment(2) | グループセッション

2016年12月22日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」まとめ

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「池にすむ水の精」が、
結婚生活を霊性磨きと捉えたときの、
成長プロセスを教えてくれているとお分かりいただけたでしょうか。

この童話をはじめて読んだときは、
この童話が夫婦の在り方、
成長の形を教えてくれていると理解はできたものの、
解説に着手できるわけもありません。

4半世紀過ぎた今解説を手がけて思うことですが、
この童話の解説には、
自分の結婚生活と照らし合わせられる歳月が、
是非とも必要でした。

そうは言っても、
これができている自分たちだと自負できる訳ではありません。
これまで夫婦の危機はいくらでもありましたし、
その危機を生んだ問題が解決している訳でもありません。
しかしこれからの道は、
この童話の示すと変わりない道を歩くことになるだろうという自覚は持てました。
それで今後結婚生活を投げ出すことがなければ、
他人からは「野暮の骨頂」の、
「天国にいるような気持ち」をふたりで味わう一瞬もあるでしょう。
この話を実生活で行きつ戻りつしながら、
最後の場面に到達しえる希望は持てています。
それが普遍的無意識といえる童話の持つ力なのだと思います。

フロイトはトラウマを発見しました。
これは20世紀の大発見です。
しかし近年これを受け入れられる人でさえ、
トラウマが原因で、
悩みと迷いの渦にいるという理解どまりです。
自分もトラウマに苦しみ、
その元のカルマという今生の課題に挑戦しているなら、
パートナーも同じくトラウマに手かせ足かせ状態でいます。
(もし、悩みも迷いも無い精神状態を保てているなら、
その方はトラウマを克服したかその影響下に無い訳で、
思い通りの人生を送れていることになります。)

トラウマを理解できた自分の子孫は、
出生に輝きと安心を感じられる人であって欲しい。
この環境づくりが、
トラウマを理解できたものの責任だと、
考えられるところまで到達したいものです。
子孫を輝きと安心の中に迎えるその前に、
その環境を作る理解と実行が人生の目的だという、
これをご理解いただきたいのです。

私たちは残念なことに、
社会的な偉業を成し、
それをもって社会に貢献することが人生の大目的としがちです。
しかしこの「池にすむ水の精」では、
それは「粉ひき」どまりの達成でしかありません。
このさき心の獲物を狩る「狩人」となって、
霊性へ取り組むことが必要です。

人間は本来精神も霊性も肉体も異性を求めます。
それが霊性に適い、
感情(=精神性の状態を教えるもの)の豊かさを育み、
肉体の要求を満足させられた瞬間に、
霊性が満たされる経験をします。

肉体の要求は霊性に適い、
霊性の望みが肉体で満たされていくので、
この感動は霊性を高みに引き上げてくれます。
感動(感情)を感じる心は霊性と肉体をひとつにまとめる要です。
これが心身に宿る愛の不思議です。
こころとからだと魂がひとつに溶けあった感動が愛の姿です。
現代はこの豊かな愛に裏付けされた愛の表現が、
必ずしも妊娠と結びついていません。

これを結びつけられれば、
これが自分の誕生時に自分に起きたことなら、
つまり両親のこころとからだの感動の一瞬が受精を迎え、
自分がこの世に誕生するきっかけとなったと納得できれば、
私たちは自分の尊厳を自分に持つことができます。
健全な自己像を持てれば、
そこにトラウマが入る隙はありません。

このお嫁さんの態度が「アモールとプシケー」のプシケーにつながります。
「プシケー」とは「psyche」。
スペルから推察できるように、
心理学「psychology」の語源になっています。
自己を知る作業程尊くやりがいがある業はありません。

「池にすむ水の精」に話を戻すと、
「粉ひき」ではじまった結婚生活は、
生活の糧を得る力をつけるのがその中心です。
これはサラリーマンが定年を迎えるまでのことです。
つまり引退を迎えることができて、
以後結婚生活は本格的な魂磨きに移ります。
この区分けはかなり乱暴です。
容赦のないところですが、
振り返って夫に収入が少ないとか、
ふたりで働いても生活が楽にならないと嘆く間は、
「粉ひき」止まりの結婚生活となります。
若い間は、あるいは生活費が頭を悩ましている間は「粉ひき」なのです。

「粉ひき」の意味を説明すると、
「粉」はパンの材料ですから生きる上での糧を得ることとなります。
生きる上での糧を求めること。
それで「粉ひき」は糧を得ることに精通できた人となります。
「狩人」は森に棲む動物を狩る人です。
更に森には秘めた才能が隠されているところです。
森の中には地中深くに鉱脈があり、
その才つまり宝石貴石の取り出し方に精通する必要があります。
ちょっと理解しにくい考え方かもしれません。
ここは日本的には、鎮守の森と考えて、
神意を知るところと受け取った方が良いと思っていますが、
この話の出所はヨーロッパなのでそちらに従っています。

簡単にいうと、
「粉ひき」は糧を得ること。
「狩人」は霊性の棲む肉体から生きる意味を学ぶこと。
別な言い方をすると、
本能的な衝動や思いは、
その深くに自分独自の才能が隠れてくれることを知らせています。
それを「狩る人」なので、
「狩人」は自己探求に取り組む人となります。
「粉ひき」から「狩人」への生きる姿勢の移行は、
結婚生活を霊性へのチャレンジへと変化させる欠かせないプロセスです。

結婚生活を霊性発達に役立てる変化変容を、
職業としての「粉ひき」から「狩人」で表します。
しかしここで終らず、
表立った苦境を乗り越えたその途端、
「女はひきがえるに、男はただの蛙に化けます」。
このメタファーをどのように受け取るか、
道半ばの今のわたしの考えを述べるなら、
苦境を乗り越えて、
更に蛙になって
相手を相手と認識できない期間が必要だというのでしょう。
それより寧ろ蛙でいる必要を説いているように思います。
ここを、自主独立の期間と仮定したらどうでしょう。
結婚しているからわたしは相手とつながっていると考えるのは間違い。
互いの独立のカギが「蛙の特性を自分のものにする」ではないでしょうか。

蛙は両生類です。
「いばら姫」のところでもお話ししたように、
ザリガニも両生類でした。
その両生のザリガニが妃の願いは成就すると教えてくれたのでした。
水中も生きられ、
陸上でも生きる術を習得してこそ、
子供が授かる訳です。

「池にすむ水の精」に戻ると、
夫と妻それぞれが、
自分の感情(水中)とこの世の成り立ち(陸上)を理解して、
互いが互いの在り方に影響されず独り立ちするまで、
相手を相手と理解できないと読むことができます。

実際の結婚生活に当てはめると、
これがとてつもなく努力のいる段階だと実感するでしょう。
一つ屋根の下に生活していても相手に言葉は通じません。
相手の生き方価値観が承知できません。
お互いすりあわせられるところが見つかりません。
どうしてこの人と生涯を共にすると決めたのか、
そのときの自分が理解できません。
その不如意な思いすべてを投げ捨てて、
感情を味わい尽くし、
地上に生きる術を獲得する。
それがここでは蛙という訳です。

このあとふたりは「羊飼い」になります。
次の段階の自己探求を「羊を飼う」ことで表します。
「狩人」は動物的本能の存在を知ることでした。
(この「動物的本能」という表現は舌足らずで誤解を招くでしょう。
動物たちをみていると分かるように、
彼らは地球と共存しています。
「地球と共存している」という感覚が、
人間より感性豊かとした方が良いかもしれません。)
「羊飼い」は、
「狩人」からその本能を飼いならす段階へ進むことを表しています。
この段階が夫婦単位で行われることはありません。
夫は夫、妻は妻で別々に体得しないといけないのです。

19節と20節の童話の最後のところはとても美しい。
19節では、ふたりがそれぞれに羊飼いとして経験を積んだ後、
お互いが羊飼いであると認識し出会うことで、
ひとりぼっちでないことをうれしく思う気持ちになります。
それでもふたりの特別な関係を思い出すことはありません。
男が笛を吹いて、それを聞いた女が涙を流します。
感情の浄化に涙を流すことができます。
相手を攻めるのではない、
本当の感情の浄化です。
その女の涙をまともに見ることができた男が、
このときはじめて女が自分の妻だと認識できます。

結婚生活で互いに互いの生き方に文句のあるうちは、
霊性磨きに成果は見込めないようです。 
そして話し合いでお互いを確認し合っている間も、
魂磨きの成果は見込めないようで。。。。。
『「何故泣くの?」と羊飼い』が訊けて事態は急転直下の展開を見せます。
「何故泣くの?」と妻に言える男性になってはじめて、
統合がはじまるようです。
つまり成果が現れる。

神社の「鳥居」の説明に「自立」と「受容」の二本の柱があって、
参道を歩けると講座では良く話ます。
それに通じるお話でした。

ここでこの童話の解説をおしまいにしますが、
このお嫁さんとプシケーは自分の考えで夫を救い出していません。
尊敬する存在の智慧をたよりに行動するだけです。
自分が考え自分が計画したことを実行しているのではないのです。
ここの真理に関して今回は触れていません。
この点の大事なところは、
これこそが女性性の最たる特質です。
またどこかでこのことについてお話ししましょう。


posted by 天の鳥船庵 at 11:57 | Comment(0) | 池にすむ水の精