
映画「ボヘミアンラプソディー」を見ました。
どうしてロックに無縁のわたしが見ようと思ったか。
いろいろありますが、
勘がはたらいたのです。
重い腰をあげる最終動機は、
受講生たちの「いいですよ」合唱。
そして監督が才人のブライアン・シンガーという名前。
去年の初夢の「シンガー(さん)」課題はずっと続いています。
ユング派心理学者ジューン・シンガーは「男女両性具有」を論じ、
ブライアン・シンガー監督は「ボヘミアンラプソディー」で、
フレディ・マーキュリーのゲイを語り、
自身の生き方とその信じるところを映像にしたのでしょう。
40年は昔、
人類はこの問題を強く突きつけられていたのだと改めて思いました。
エイズが死の病だったように、
性についてはとても神経質になっていたので、
全体像を知るには時間が必要でした。
とはいえまだまだ性を語るにはわたしたちは幼い魂です。
クイーンに興味のなかったわたしがここでお話することが、
偏見に満ちているのか、
言い古されたことなのかよくわかりません。
しかしわたしのブログなので書いておきたいと思います。
アーティストとしてのフレディ・マーキュリーに賛辞を惜しまない気持ちをです。
ボヘミアン・ラプソディの歌詞はとても衝撃的です。
特に「Mama」からはじまるところは、
1975年の発表を考えれば、
女性性の時代の幕開けを歌っているようにも思えます。
Mama, just killed a man
Put a gun against his head
Pulled my trigger, now he’s dead
この歌詞を聞いて、
すぐにそれとはわかりませんでしたが、
これは懺悔なのだろうとよぎりました。
「Mama」が実の母親とは到底思えません。
日本人には馴染みはないけれど、
昔の映画では神父に懺悔をする場面はよく見たものです。
そこで「これはカミングアウトだ」と想像しました。
(きっとこの見方は多くの方と同意見なのだと思います)
それも「Mama」なる神に向けて。
そうなると、「Mama」がとてつもなくクリエイティブな言葉に思えました。
キリスト教では「主(=神)」は「Father」です。
フレディ・マーキュリーは「Mother」とは言わず、
「Mama」と神を呼んでいます。
苦悩が最高潮に達して苦悩の渦に逆らえないと気付いたとき、
ふと自分自身が何かに守られていると、
説明のつかない思いを抱くことがあります。
この世の汚濁まみれで反抗の真っ只中の自分であってさえ、
この世を超えた何かに守られていると。
苦悩が頂点に達すると、
神の存在が最も親しめる実在になります。
だからなんでも言える心境になります。
そこでこの歌詞ができたのでしょう。
説明のつかない、
弱いのか強いのかさえ定かでない境地にはいると、
守ってくれているその存在が、
イメージを超えた実在となって実感の対象になります。
それをフレディ・マーキュリーは「Mama」と呼んだのでしょう。
「父なる神」という畏怖の対象ではなく、
さわれる風のような存在。
さわってもらえる鼓動ある実在。
それを「Mama」と呼んだのでしょう。
心の中にどっかり居座ってふたりだけになっている存在。
それを「Mama」と呼んだのでしょう。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」で、
フレディ・マーキュリーは自分を「バイセクシュアル」だというのですが、
女性の恋人は「いいえ、あなたはゲイよ」と返します。
そして彼女が彼に別れを告げる決定的場面で、
彼女は自分が見た夢を語ります。
まるでその夢が神の意志をつげていると言わんばかりに堂々とです。
映画を見ていて、
その夢の一部始終を覚えられませんでした。
いつも夢と聞けば一遍に覚えられるのにです。
その理由は、「これは本当に寝て見た夢だろうか」と迷ったのです。
なんとなく作り物の夢に思えたのです。
とはいえ、夢は魂の修行にならないパートナーの場合は、
はっきりそうと言ってくるので、
本物の夢かどうかはわからないけれど、
夢を理解した人が台本を書いていると思ったのでした。
監督のブライアン・シンガーは、
映画仕上がりの2週間前に仕事を離れたそうで、
この逸話がわたしには何かとても暗示的に思えます。
魂としての完成を目指して、
ジューン・シンガーは男女両性具有を学問的に論じましたが、
映画「ボヘミアン・ラプソディ」はフレディ・マーキュリーを題材に、
性における肉体と精神の苦悩を通して、
直接神に語りかける心情を得ました。
心の中で神が実在となって、
はじめてわたしたちは男女両性具有に向けて生きられるのだと思います。
それが「 Mama」への語りかけではじまります。
言葉足らずですが、
ボヘミアンラプソディーの感想です。