[ 天の鳥船庵だより ブログアーカイブ・2015年1月〜2023年2月 ]

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2019年02月19日

映画「ボヘミアンラプソディー」


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映画「ボヘミアンラプソディー」を見ました。
どうしてロックに無縁のわたしが見ようと思ったか。
いろいろありますが、
勘がはたらいたのです。

重い腰をあげる最終動機は、
受講生たちの「いいですよ」合唱。
そして監督が才人のブライアン・シンガーという名前。
去年の初夢の「シンガー(さん)」課題はずっと続いています。

ユング派心理学者ジューン・シンガーは「男女両性具有」を論じ、
ブライアン・シンガー監督は「ボヘミアンラプソディー」で、
フレディ・マーキュリーのゲイを語り、
自身の生き方とその信じるところを映像にしたのでしょう。
40年は昔、
人類はこの問題を強く突きつけられていたのだと改めて思いました。
エイズが死の病だったように、
性についてはとても神経質になっていたので、
全体像を知るには時間が必要でした。
とはいえまだまだ性を語るにはわたしたちは幼い魂です。

クイーンに興味のなかったわたしがここでお話することが、
偏見に満ちているのか、
言い古されたことなのかよくわかりません。
しかしわたしのブログなので書いておきたいと思います。
アーティストとしてのフレディ・マーキュリーに賛辞を惜しまない気持ちをです。

ボヘミアン・ラプソディの歌詞はとても衝撃的です。
特に「Mama」からはじまるところは、
1975年の発表を考えれば、
女性性の時代の幕開けを歌っているようにも思えます。

Mama, just killed a man
Put a gun against his head
Pulled my trigger, now he’s dead

この歌詞を聞いて、
すぐにそれとはわかりませんでしたが、
これは懺悔なのだろうとよぎりました。
「Mama」が実の母親とは到底思えません。
日本人には馴染みはないけれど、
昔の映画では神父に懺悔をする場面はよく見たものです。
そこで「これはカミングアウトだ」と想像しました。
(きっとこの見方は多くの方と同意見なのだと思います)

それも「Mama」なる神に向けて。
そうなると、「Mama」がとてつもなくクリエイティブな言葉に思えました。
 
キリスト教では「主(=神)」は「Father」です。
フレディ・マーキュリーは「Mother」とは言わず、
「Mama」と神を呼んでいます。

苦悩が最高潮に達して苦悩の渦に逆らえないと気付いたとき、
ふと自分自身が何かに守られていると、
説明のつかない思いを抱くことがあります。
この世の汚濁まみれで反抗の真っ只中の自分であってさえ、
この世を超えた何かに守られていると。
苦悩が頂点に達すると、
神の存在が最も親しめる実在になります。
だからなんでも言える心境になります。
そこでこの歌詞ができたのでしょう。

説明のつかない、
弱いのか強いのかさえ定かでない境地にはいると、
守ってくれているその存在が、
イメージを超えた実在となって実感の対象になります。
それをフレディ・マーキュリーは「Mama」と呼んだのでしょう。

「父なる神」という畏怖の対象ではなく、
さわれる風のような存在。
さわってもらえる鼓動ある実在。
それを「Mama」と呼んだのでしょう。
心の中にどっかり居座ってふたりだけになっている存在。
それを「Mama」と呼んだのでしょう。

映画「ボヘミアン・ラプソディ」で、
フレディ・マーキュリーは自分を「バイセクシュアル」だというのですが、
女性の恋人は「いいえ、あなたはゲイよ」と返します。
そして彼女が彼に別れを告げる決定的場面で、
彼女は自分が見た夢を語ります。

まるでその夢が神の意志をつげていると言わんばかりに堂々とです。

映画を見ていて、
その夢の一部始終を覚えられませんでした。
いつも夢と聞けば一遍に覚えられるのにです。
その理由は、「これは本当に寝て見た夢だろうか」と迷ったのです。
なんとなく作り物の夢に思えたのです。
とはいえ、夢は魂の修行にならないパートナーの場合は、
はっきりそうと言ってくるので、
本物の夢かどうかはわからないけれど、
夢を理解した人が台本を書いていると思ったのでした。

監督のブライアン・シンガーは、
映画仕上がりの2週間前に仕事を離れたそうで、
この逸話がわたしには何かとても暗示的に思えます。

魂としての完成を目指して、
ジューン・シンガーは男女両性具有を学問的に論じましたが、
映画「ボヘミアン・ラプソディ」はフレディ・マーキュリーを題材に、
性における肉体と精神の苦悩を通して、
直接神に語りかける心情を得ました。

心の中で神が実在となって、
はじめてわたしたちは男女両性具有に向けて生きられるのだと思います。
それが「 Mama」への語りかけではじまります。

言葉足らずですが、
ボヘミアンラプソディーの感想です。




posted by 天の鳥船庵 at 11:06 | あれこれ

2019年02月11日

「おっと」と「おっとさん」


4月から新しい1年の夢療法講座が始まります。
こちらにご希望の方は一度オープンクラスか個人セッションをお取りください。
また養成講座のクライアントを募集します。
こちらも一度オープンクラスか個人セッションをお取りください。
詳細は後日「お知らせ」で告知します。

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もう40年は昔。
犬養道子の本を読んでいて、
「日本の女性は自分の夫を『主人」』と呼ぶ」という文章を読んで、
「夫を主人とは決して言わない」を貫いて来ました。
犬養道子の言いたいのは、
日本人だけが自分の結婚相手を「主人」と呼ぶ。
世界のどの国を見てもそういう呼称はない。
だから日本女性は自主独立の精神が育っていない。
精神的にも経済的にも夫に依存しているというような内容だったと思います。
正確な言葉遣いは忘れましたが、
意味としてはこうしたものだと記憶しています。

「主人」とはマスターであり、
わたしの主権は夫にありますと宣言しているようなもの。

犬養道子の論評はかなり厳しいものだったと記憶しています。
そのころ曽野綾子が三浦朱門を同居人と書いていた記憶があります。
さすがに文人。
夫の呼称には神経を使ったのでしょう。

それから時代はかなり変わりましたが、
夫を主人と呼ぶ女性はいまも少なくありません。

何年か前「つれがうつになりまして」という漫画本を読みました。
内容は忘れましたが、
この題名にひかれました。
この夫婦の関係がほんわかと見えるような題名です。
「夫」を「つれ」と呼ぶその「ともにある」感じが、
「うつ」をどう捉えどう二人で乗り越えようとしているのか、
題名だけで想像できるし、
読む方にとっても鼓舞される匂いがします。

養成講座ではケースを持って面談を行います。
セラピストは面談を逐語訳して、
ケースカンファレンスにかけるのですが、
そのときセラピストが「あなたのご主人」、
或いは「旦那さま」という言葉を使うことがあります。
その度に「申し訳ないけれど、
『主人』という言葉を使わないでほしい」と念を押します。

夢療法による面談です。
夢は霊性を扱うので、
霊的生き方の示唆を読みます。
霊的生き方は自主性と主体性を大切にします。
そこで、自分以外を「主(あるじ)」にすることを極力戒めます。

婚姻関係を結んでいるとはいえ、
夫は心を売り渡す主人ではありません。
夢の中の自分が自主性ある態度を取っているだろうか。
主体的に行動しているだろうか。
夢を理解するにはこの視点から自分の現状を精査する必要があります。

そこを含めて、
クライアントの夫を「ご主人」乃至「旦那さま」と呼んでは、
面談に一貫性を盛り込めません。

そこで考えた受講生は、
「夫」の代わりに「夫さん」を広めたいと言い出しました。
これが根付くかどうかはわかりません。
わたし自身は、
「あなたの夫」或いはその方のファーストネームを呼ぶようにしています。

犬養道子がいうには、
言葉には力があり、
夫を主人と言い続けていると、
意識しなくてもそこに言葉の力が働くのだと。
それを意識した方が良いということを言っていたと思います。
この論法にはグーの音も出ません。

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さて、夢の中で誰かが言葉を掛けて来たとします。
そのときあなたはその言葉をどう処理しますか。
夢の中で「あなたはこうですね。ああですね」と言われたらどうしますか。

自主性を持って、主体性を持って考えてください。
大抵夢の中で形ある者が言うときは注意します。
あなたがその人に助言を求め、
それに納得している場合はその助言を生かそうとするでしょう。

しかし形ある者は意外と余計なことを言います。
人の意見に依存していると言うのが夢が伝えたいことです。

先日それとは真反対の夢の声の話を聞きました。
夢では声だけ聞いたのだそうです。
その言葉です。

【この自分を完璧に演じることだ】

真我の声はこのようなものです。
この夢主さん若くはありません。
しかし、これから新しい人生をはじめるには、
まだまだ十分な時間も体力も気力も備えた人です。

その方はその後、

【真我の森を探検する】夢を見たそうです。

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このわたしのブログ記事はまだまだ「真我」「シンガーさん」が続きます。




posted by 天の鳥船庵 at 18:30 | 夢の活用法