[ 天の鳥船庵だより ブログアーカイブ・2015年1月〜2023年2月 ]

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2020年08月24日

お盆で霊界通信



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15日はクローズクラスでした。
お盆の最終日でもあり、
結果としては夢の得意とする異次元通信が多く話し合われました。

長く夢だけを相手にしてきて確信していることですが、
あちらの世界に帰られた方が夢に現れるのは、
夢をみる方に対し止むに止まれぬ想いがあるからです。
つまりメッセージがあるから夢に現れてくれます。
更にその止むに止まれぬ想いを夢で伝える霊性が先方にあるから、
夢になります。

まとめると、この世を去った方が夢に現れるのは、
夢をみてくれる人に伝えたい熱い想いがあり、
それを実現できる霊格が先方に備わり、
受取手(夢主)もそれに応えたい何らかの理由があって、
夢として見られるということです。

ですから、すでに死んだ人を夢に見たときは、
その方の想いを夢のメッセージとして受け取れないといけません。
しかしそこが夢です。
一筋縄ではいかない擬装工作にまみれているのが普通です。

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あの世に旅立った人がこの世に残っている人の夢に出てくるには、
それなりの霊格がないと達成できないといいましたが、
あの世に旅立った方が神格を獲得できているかどうかはまた別です。
大抵はこの世にあったように、
修行の必要な部分も残っています。
それで、その人格のまま夢に現れます。
ですから夢での言動が信じるに値するか、
単なる駄洒落やからかいかは夢の文脈で判断します。
しかし先に申し上げたようにこの駄洒落やからかいもまた、
伝えたい熱い想いに裏打ちされています。
こちらからすればすでに仏様になった方です。
夢の中の言動に重い意味があると受け取りがちで、
「おっしゃる通り」とそのままを受け入れたくなりますが、
夢は最高の「真我」と言える神の部分からきます。
あの世に帰られた魂の意向をこの真我と言える神が、
夢をみる許可を出したのだとお考えください。

もう一度まとめると、
夢に現れたすでにあの世に帰られた方は、
夢を見てくれる人に伝えたい熱い想いがあって、
それを神さまが許されたので、
亡き人が夢に現れたということです。

大抵は、
あの世に帰ることで自由と視野の広さを得て、
夢を見てくれる人に伝えたい想いは、
生前の自分の生き方を教師としてまた反面教師として捉え、
「わたしの死を嘆くのではなく、
わたしの死を受け入れてほしい」という想いが込められているものです。
この世の時空の約束は「変化」です。
「変化」は「成長」の約束です。
死者を想うことと自分を生きることを整理してください。

この辺りの情動は他人には測り難いものがあり、
夢の指摘があって考えさせられるものです。

夢としては、
死者が生き返る夢でこのことがわかります。
生き返ってくれればうれしいものですが、
亡き人は亡き人で修行が進んでいるあの世の方が馴染んでいると言えるでしょう。

しかし繰り返しますが、
亡き人を夢に見るのは、
亡き人が夢を見てくれる人をとても愛し、気遣い、心砕いて、
その人がその人なりの人生を生きてほしいという熱い想いがあるという事実です。

夢による霊界通信には、
驚くべき実例があります。
不慮の事故で夫を亡くし、
天涯孤独の身となった60代半ばを過ぎた妻に、
亡き夫は毎晩夢に登場し、
妻を励まし、
夢を通して妻の成長を支え続けている例です。
亡くなって3年のこの頃は夢も間遠ですが、
1、2年間は本当に毎晩のように夢で彼女を励まし続けていました。
その結果、
彼女は、彼女にしかできない「仕事」を確立中です。

夢による霊界通信についてはまだまだお話ししたいことはたくさんありますが、
この続きはまたいつかのこととしましょう。

ここでお伝えしたいことは、
あの世とこの世は思いの外近く、
亡き人はこちらが感じる以上の愛情を持って接してきます。
「霊界通信」という言葉も、
手垢のついたおどろおどろしい感じがしないこともありません。
けれどやっぱりこの言葉を使おうと思ったのは、
あの世とこの世の違いはあっても、
どちらも霊的存在だから夢を通して、
あちらの世界に帰られた方がこの世の私たちに想いを伝えてくれているからです。
その想いを伝えてくれる夢は、
年々数を増し、
その内容も深みを増しています。

その想いの本当のところは、
いま地球で生きている私たちへの期待です。
わたしたちが霊的に成長することをとても望んでいます。
75年前に第2次世界大戦は終わりましたが、
戦争を知らない、いま生きている人々の心の余裕に、
期待しています。
戦争下の過酷で尋常ではない精神状態では、
霊性を磨くという考えすら浮かべることはできません。
しかし高度成長時代を通り抜け、
豊かさを体験した人々は心の内を見る余裕ができました。
それへの期待があります。
ご先祖さまは子孫に望みを託しています。
そういう夢が多くなりました。

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posted by 天の鳥船庵 at 17:39 | 夢の活用法

2020年08月17日

ライオンズゲートが開いている日に子供の瞑想のはなし



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(鎌倉のどこのおうちにも咲いています)

今日は藪入りの次の日。
8日と15日の講座で起きたことをお話したいのですが、
毎日が奇跡のオンパレード。
その感動を味わう間もなく昨日の奇跡は遠くに流れ、
一昨日の奇跡は忘却のベールに包まれる状態です。

みなさまもそんな日々をお過ごしのことと思います。
コロナ禍です。
日常の何気ないことに感慨を覚えるようになりました。
しかしその感慨もつぎつぎに起こる奇跡に押されて、
浸っている間もなく過ぎていきます。

8日のオープンクラスの出来事も忘却に消えそうですが、
多くの人に知って欲しい内容なので、
記憶を辿ってお話ししましょう。

8日はやはりオンラインでしたが、
集まってくださった方々は画面での顔合わせながら、
一期一会の訳ありで、
お互いの出席がお互いを鼓舞し、
長い時間と空間を超えて知己の縁を結び、
それがお互いを助け合うものとなっていました。

当日のみなさんは、
これからの目標がはっきりしている方々ばかりでしたが、
それに対する夢からの提案がとてもユニークでした。

「アジフライを学食で食べる」という夢は、
「大学という権威の傘下にいれば、
夢主にとって揚げ物が欲しくなる気分が増すばかり」と、
消化にストレスを生む揚げ物を取らないようにと食事への忠告があり、
合わせて権威の学術畑から抜けて新しい分野を目指すようにというアドバイスでした。

「バスケットボールの負け試合も最後の2分で逆転劇が見込める」という夢では、
スラムダンクの名言
「あきらめたら そこで試合終了ですよ」が飛び出しました。
立てた目標は終了までやり抜きましょう。

「湖の前で赤子を抱く女性」の夢は、
心に抱く願いを、
赤子を世話するように育てましょうと励ましているようでした。

「バレエの男性踊り手と楽しく踊った後で文句を言われる」夢は、
自分が自分にダメ出しをしていると夢主自身の感想でした。
「楽しいことは遠慮なくやってしまおう!」とこれもまた夢が鼓舞しています。

「中国風の赤い門の下、
祭りの出店で金魚すくいを見た子供達が
やりたいと楊貴妃メダカ掬いに挑戦する」夢は、
簡単に言って仕舞えば、
魚は瞑想を意味するので、
「子供たちに瞑想を体験させましょう」と言う結論になりました。
なんで「中国風の赤い門」が出てきたのかと言うと、
夢主曰く、
「大学で気功や太極拳、
食養生などを教えている中国人の気功の先生から個人的に気功治療を受け、
気功を習っています。(三女が妊娠してからはお休みしていますが)
子供達もいつも一緒に行くのですが、
先生にベッタリとくっつき、
横で治療を真似、やり方を聞いていましす。
それもすごく楽しそうで、真似ている瞬間は超集中しています。
子供には気を操ることが、魔法使いのように見えるらしいです。(笑)」
とのことでした。

夢では金魚すくいではなく、
楊貴妃メダカという赤いメダカだったとのこと。
童謡の「メダカの学校」を連想します。
歌詞も含蓄深く子供たちが楽しく瞑想を体験している風景を歌っているようです。
この日の出席者は、
すでに子供たちに瞑想を教えている方が複数いらして、
いろいろアイディアをいただくことができました。
この夢主は、
コロナ禍の今後の子供達の教育をどうするかだいぶ考えているようでした。
自分のメダカの夢と同席してくれた仲間の助言もあって、
子供の好きを大切にしながら、
子供に瞑想体験を覚えてもらう方向に考えをまとめることができたようです。

今まさにコロナ禍の真最中ですが、
どの夢も楽しいことやりたいことに早く着手するようにと鼓舞しています。
夢の神様にはコロナウイルスは眼中にないようです。


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posted by 天の鳥船庵 at 19:55 | 夢の活用法

2020年08月05日

今必要なこと=白雪姫の母妃を自分になぞらえる勇気

8月29日と30日の「夢の解き方講座」に空席あります。
8月8日のオープンクラスも空席あります。

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これまで長いこと夢の講座を開いてきました。
その中で夢と童話には共通点があること
その重要性と意義については
たびたび話してきましたが、
童話ひとつひとつの解説をしてきませんでした。

やっと今のクローズクラスで「桃太郎」を、
そして先日「白雪姫」を夢となぞらえて解釈する講義をやってみました。
自分の夢を自分でわかるには、
まずは自分の現状を知る必要があります。
これは極めて難しい作業なので、
童話特に「白雪姫」のストーリーを参考にするとわかりやすくなります。

古典童話の「白雪姫」にどんな斬新な意義があり、
それがこれからのわたしたちにどう役立つのか、
疑問に思われる方は多いと思いますが、
いまこのコロナ禍の下「男性原理では立ち行かない」のなら、
白雪姫の母親を自分となぞらえてみてください。
白雪姫になぞらえるのならともかく、
悪評高いその母妃に自分をなぞらえるのは気が進まないこととは思いますが。

白雪姫を自分になぞらえる場合は、
女の子として生まれて、
娘になって、
疎ましくなった母親の影響を絶って、
自分でものを考え
自分の人生を作っていくプロセスを、
白雪姫に重ねることで、
いま自分がどんな成長をしているかを知ることができます。
これが一般的且つ心理学的な見方です。

先日のクラスでは、
白雪姫の物語からキーワードを拾い、
意味付けしました。
この作業を通して、
自分独自の人生を始める(=結婚の)条件とは何かが理解できるようになります。
白雪姫を仔細に読むと、
伴侶を得る前に習い覚えることがひとつ残らず書かれていることに気づきます。

さてその詳しい話はここでは割愛するとして、
白雪姫ではなく、
白雪姫の母親を自分になぞらえることで、
このコロナ禍という苦境を乗り越えようという話に移ります。

みなさんもご存知のように、
白雪姫の母親は、
「鏡よ、壁の鏡よ、
国じゅうで一番美しい女は誰?」と、
鏡に尋ねます。

まだ結婚前の娘が鏡に訊いているのではありません。
白雪姫の母親は殊勝にも、
「雪のように白く、血のように赤く、黒檀のように黒い子供が欲しい」
と、願いました。

彼女の願いは成就し、女の子を授かります。
その女の子は長じて「自分を生きる女性」に成長します。
彼女の願い
「雪のように白く、血のように赤く、黒檀のように黒い子供」は、
誰の影響も受けない雪のように白い魂をベースに、
自分の赤い情熱たぎる血を沸き立たせ、
黒檀のような硬い意志を貫き自分の身に起きる全てを受け入れ、
分を超えることなく果敢に挑むことでした。

このように娘は「自分を生きる女性」に育ったのですから、
願いどおりの子供を持つ母親となったわけです。

つまり白雪姫の物語は、
白雪姫側からもその母親側からもハッピーエンド物語なのです。

では、何が成功をもたらしたのでしょう。
彼女は、
「鏡よ、壁の鏡よ、
国じゅうで一番美しい女は誰?」と、
再三再四鏡に尋ねます。

この言葉を翻訳しましょう。
この言葉を誰にでも当てはまる言葉に置き換えてみましょう。
この物語は凡人の私たちには妃が意地悪すぎて、
自分には関係ない悪人にしかならず、
私たちの見本にはなりません。
しかしこれは童話です。
大袈裟だけれど多くの人の心の芯に届く物語なのです。
ちなみに、童話では美人ばかりが登場しますが、
これは心がきれいという意味で、
外見が綺麗という意味ではありません。
このお妃さんもそれなりに自分の心を綺麗にすべく躍起だったことになります。

通常女性は結婚し妊娠すると、
この妃と同じように、
「この子は、『自分を生きる人』であって欲しい」と願うものです。
その気持ちに嘘偽りはありません。

また、妊娠した女性は自分がこの子の最高の母親でありたいと思い、
最善の母親だと思い込むでしょう。
この「誰よりもこの子にふさわしい母親」という思いが、
童話「白雪姫」では「妃」という身分で表されています。
そう考えると妃の心中が私たちと近いものになりませんか。

妃が尋ねた鏡は「壁の鏡」です。
全身を映す鏡です。
自分の等身大を見ることのできる鏡に自分を映したということです。
都合の良いところだけ映す鏡でありません。
ここがミソです。
彼女は一生懸命だったのです。
自分の心全部を余すところなく見つめる勇気。
それを持った女性です。
それも何度も、何度も鏡に尋ねる気骨のある女性です。
これがこれからを生きる女性に必要です。

残念ながら男性にこれは難しいのです。
男性性は手応えのある成果を、結果を求める傾向があります。
自分の心だけを見る勇気では、納まりがつかないのです。

妃は自分の心を見続ける勇気に恵まれていました。
けれど鏡に映った自分は「最善でも最高でもない」と分かります。
「人として娘の方が徳高い」と鏡が教えてくれたのです。
これはきついし、承服し難いでしょう。
娘を産んで、
その子がだんだんと大きくなっていく間、
片時も目を離さず見てきた母親は、
必然的に自分の方が知恵に長けていると思いがちです。
「知恵も、徳も、世間への見方も、対処の仕方も、
わたしは娘を教えられる1番の存在だ」
そう思うのも無理からぬところです。

「鏡よ、壁の鏡よ、
国じゅうで一番美しい女は誰?」という妃の言葉は、
このような確信の上で訊いた問いなのです。

多くの女性は自分の子供にとって最善であろうとし、
その努力を惜しみません。
それが往々にして独善的であることは周りに見えても、
自分には見えないのが本当のところです。

でも、この妃は何かしっくりこないものを自分に感じたのでしょう。
鏡に訊きます。
「私は純粋な心で大事な娘を育てていますか?」と。

訊かれた鏡は容赦しません。
「白雪姫の方が純粋だ」と。

そこで自分が正しいと躍起になった妃は、
労を惜しまず自説を通そうとします。
何度も鏡に訊いて、
その神の声に反旗を翻し、
自分の方が正しいと思い行動します。
こういう親は今この世に万といます。
自分の方が正しいと娘に試しては尽く失敗します。
失敗のたびに娘は妃の届かない部外者になります。

妃にとって「娘は部外者である」とこの童話は伝えたいようです。
これが「自律」であり、「自立」なのだと思います。

妃の最後がどうなったか童話にはありません。
自省はこれほどまでに難しいのです。
でも、心ある女性にはできます。
私たちには名誉もお金も初っ端から無縁です。
他と比べる愚かさを知っています。

これからはお化けのようなマスメディアは無くなるでしょう。
お偉いさんもなくなります。
横にいる「見ず知らずの人」と手を繋ぐ気質はわたしたちにあります。

白雪姫の母妃に範を求めましょう。
自分を知る勇気をもちましょう。 
その実りは自分だけが享受できるのだと思います。
報酬のないものが子育てで、
自己を見続け、霊性を生きる
その報酬もあの世の基準でしか測れません。
それでは不足ですか。
目に見える成果が欲しいですか。
魂の歓喜は自分だけが覚えるものです。

自分を等身大に見続け、
神の本当の声に反旗を翻し続けた妃は、
子供の関心も買えず、
自分ひとりになり、
それでも尚自分を見続けたように思えます。

あとは神との、
鏡との対話だけです。
つまり妃にとっての鏡は、
わたしたちにとっての夢なのです。

夢は夢主に極めて厳しいメッセージを送ってきます。
けれどその厳しさに怯まず、
食らいついていくと、その先に霊的満足を覚えるようになります。

神に祈りながら、神に文句を言えるようになります。
神が誰よりも身近な存在になって、
神の意向が手に取るようにわかるようになります。

これが霊的安心感に繋がります。

これからは自分を中心に置いて、
状況を判断しましょう。
自分を信頼しましょう。
自己覚知に取り組むと、
妃のように孤立無援を経験するかもしれません。
それでも良いのです。
夢を通して神との対話をしているのです。
相手は神です。
恐れることはありません。
エゴ(自我)を捨てるまでには何回も、何回も失敗します。
その失敗を恐れず夢という鏡に自分を映し続けましょう。

コロナ禍のこれからは、
この鏡という夢が伴奏者になってくれます。
強い味方です。



posted by 天の鳥船庵 at 18:54 | あれこれ