
15日はクローズクラスでした。
お盆の最終日でもあり、
結果としては夢の得意とする異次元通信が多く話し合われました。
長く夢だけを相手にしてきて確信していることですが、
あちらの世界に帰られた方が夢に現れるのは、
夢をみる方に対し止むに止まれぬ想いがあるからです。
つまりメッセージがあるから夢に現れてくれます。
更にその止むに止まれぬ想いを夢で伝える霊性が先方にあるから、
夢になります。
まとめると、この世を去った方が夢に現れるのは、
夢をみてくれる人に伝えたい熱い想いがあり、
それを実現できる霊格が先方に備わり、
受取手(夢主)もそれに応えたい何らかの理由があって、
夢として見られるということです。
ですから、すでに死んだ人を夢に見たときは、
その方の想いを夢のメッセージとして受け取れないといけません。
しかしそこが夢です。
一筋縄ではいかない擬装工作にまみれているのが普通です。

あの世に旅立った人がこの世に残っている人の夢に出てくるには、
それなりの霊格がないと達成できないといいましたが、
あの世に旅立った方が神格を獲得できているかどうかはまた別です。
大抵はこの世にあったように、
修行の必要な部分も残っています。
それで、その人格のまま夢に現れます。
ですから夢での言動が信じるに値するか、
単なる駄洒落やからかいかは夢の文脈で判断します。
しかし先に申し上げたようにこの駄洒落やからかいもまた、
伝えたい熱い想いに裏打ちされています。
こちらからすればすでに仏様になった方です。
夢の中の言動に重い意味があると受け取りがちで、
「おっしゃる通り」とそのままを受け入れたくなりますが、
夢は最高の「真我」と言える神の部分からきます。
あの世に帰られた魂の意向をこの真我と言える神が、
夢をみる許可を出したのだとお考えください。
もう一度まとめると、
夢に現れたすでにあの世に帰られた方は、
夢を見てくれる人に伝えたい熱い想いがあって、
それを神さまが許されたので、
亡き人が夢に現れたということです。
大抵は、
あの世に帰ることで自由と視野の広さを得て、
夢を見てくれる人に伝えたい想いは、
生前の自分の生き方を教師としてまた反面教師として捉え、
「わたしの死を嘆くのではなく、
わたしの死を受け入れてほしい」という想いが込められているものです。
この世の時空の約束は「変化」です。
「変化」は「成長」の約束です。
死者を想うことと自分を生きることを整理してください。
この辺りの情動は他人には測り難いものがあり、
夢の指摘があって考えさせられるものです。
夢としては、
死者が生き返る夢でこのことがわかります。
生き返ってくれればうれしいものですが、
亡き人は亡き人で修行が進んでいるあの世の方が馴染んでいると言えるでしょう。
しかし繰り返しますが、
亡き人を夢に見るのは、
亡き人が夢を見てくれる人をとても愛し、気遣い、心砕いて、
その人がその人なりの人生を生きてほしいという熱い想いがあるという事実です。
夢による霊界通信には、
驚くべき実例があります。
不慮の事故で夫を亡くし、
天涯孤独の身となった60代半ばを過ぎた妻に、
亡き夫は毎晩夢に登場し、
妻を励まし、
夢を通して妻の成長を支え続けている例です。
亡くなって3年のこの頃は夢も間遠ですが、
1、2年間は本当に毎晩のように夢で彼女を励まし続けていました。
その結果、
彼女は、彼女にしかできない「仕事」を確立中です。
夢による霊界通信についてはまだまだお話ししたいことはたくさんありますが、
この続きはまたいつかのこととしましょう。
ここでお伝えしたいことは、
あの世とこの世は思いの外近く、
亡き人はこちらが感じる以上の愛情を持って接してきます。
「霊界通信」という言葉も、
手垢のついたおどろおどろしい感じがしないこともありません。
けれどやっぱりこの言葉を使おうと思ったのは、
あの世とこの世の違いはあっても、
どちらも霊的存在だから夢を通して、
あちらの世界に帰られた方がこの世の私たちに想いを伝えてくれているからです。
その想いを伝えてくれる夢は、
年々数を増し、
その内容も深みを増しています。
その想いの本当のところは、
いま地球で生きている私たちへの期待です。
わたしたちが霊的に成長することをとても望んでいます。
75年前に第2次世界大戦は終わりましたが、
戦争を知らない、いま生きている人々の心の余裕に、
期待しています。
戦争下の過酷で尋常ではない精神状態では、
霊性を磨くという考えすら浮かべることはできません。
しかし高度成長時代を通り抜け、
豊かさを体験した人々は心の内を見る余裕ができました。
それへの期待があります。
ご先祖さまは子孫に望みを託しています。
そういう夢が多くなりました。
