12月11日のオープンクラスに空席あります。
オンライン講座も募集中です。
更に、
養成講座のケース研究のためのクライアントも募集中です。

ある晴れた日の散歩中に、
「僕ら七日間戦争」という児童小説を偶然見つけました。
民家のガレージに「ご自由にどうぞ」と張り紙がしてあって、
本が二冊と細々とした雑貨がテーブルに置いてありました。
人影もなかったので野次馬根性で覗いてみました。
雑貨には興味が湧きませんでしたが、
大きめの黄色い本が「ぼくらの七日間戦争」と読めました。
「へ〜っ?!」です。
ブログ記事にはしたもののこれを読む気はありませんでした。
それでもこれ見よがしに置かれてごらんなさい。
これこそ「読んでみたら?」の天のお誘いと思いました。
そこで遠慮なくこの本いただくことにしました。
この本を読むということは、
「
『聖母(マドンナ)たちのララバイ』考」から発して、
「その続きを書いたらどうか」と促されているようです。
そうは思うものの積極的にとは言い難い気分でした。
自分の過去を振り返ることになるからです。
いままでそんな暇もなかったし、
振り返るほどの過去があるわけでもありません。
とはいえ読みました。
読んで感じたこれからのことを書きます。
まずはあとがきから。
作者の宗田理(そうだ おさむ)氏曰く、
「1985年に角川文庫として発刊。
20年ほど前の大学闘争が東大安田講堂攻防戦にいたって頂点に登り詰めた。
親たちの青春時代はかっこうよかった。」というのです。
その世代を親に持つ子供たちに、
「あの親のように血気盛んであってほしい」という思いが、
この小説を書かせたようです。
となると、わたしの感想は少し違ってきます。
あのころの学生たちはかっこうよかったでしょうか。
わたしにはそうは思えないのです。
東大安田講堂攻防戦は、「全学共闘会議および新左翼の学生が、東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠していた事件と、大学から依頼を受けた警視庁が1969年1月18日から1月19日に封鎖解除を行った事件」とウィキペディアにあります。
1970年私は原宿の表参道と青山通りの交差点近くに住んでいました。
このころ、
全学連というより「中核」と書かれたヘルメットを被った学生たち(?)が、
大通りを幅いっぱい占拠し、
隊列をなしてデモを行なっている姿を見たものです。
「全共闘」もあったと思いますがもう記憶は定かではありません。
表参道の歩道橋の上には、
野次馬が大勢登ってデモ隊を眺めていたのを思い出します。
(その頃表参道には桜の木がまだ2本ばかり残っていて、
花をつけていたようにも思うのですが。)
彼らに向かって催涙弾が投げられ、
デモ隊は夜にはいなくなるものの、
住民はそのおかげで涙が止まらない数時間(?)を過ごしたものです。
1960年、70年は安保闘争が盛んでした。
60年には樺美智子さんのデモ中の圧死事件がおきました。
安保闘争とは、日米安全保障条約批准反対運動のことです。
敗戦は日本人をとても神経質にしましたが、
それ以上に焼け野原の日本を復興させなくてはいけない必死の親たちに変わって、
若者たちは戦争につながる種火に敏感だったので、
安保闘争を起こしたのだというのがわたしの見解です。
とはいえ、あれだけの盛り上がりを見せたのに、
以後宗田理氏がいうように、
日本国民は体制に歯向かうことがないように見えます。
1945年に敗戦を迎え日本は核被爆国でありながら、
10年目の1955年(昭和30年)12月19日に早くも原子力基本法を成立させ、
原子炉作りに邁進していきました。
この速さは異様です。
大学闘争の前に安保闘争があったから、
大学闘争は盛り上がったのだとわたしは考えています。
戦争への危機感は大変なものでした。
それが被爆国でありながら、
原子炉の制御方法も見えないままに、
2011年3月11日東日本大震災を迎えて、
福島第一原子力発電所におけるメルトダウンで苦しむことになります。
(注:この時点で日本には54基の原発があり、稼働しているのは9基だそうです)
「
聖母(マドンナ)たちのララバイ考」でも書きましたように、
あの歌の背後には「核」の存在があります。
「核」はこの社会を牛耳る恰好の餌です。
その「核」は平和利用という名で経済社会の中心に居座ったのです。
その「核」に否を唱えて、
若者は血気盛んでしたが、
催涙弾を浴びたわたしの頭の中には、
ここから何かが生まれるとは思えませんでした。
これは本能的なものです。
理性できちんと考えて選んだ結果ではありません。
けれど少なくともこのやり方はわたしの道ではないと思ったのです。
安保闘争の時には盛んに核搭載疑惑がある戦艦入港がニュースに載ったものです。
この時の有耶無耶は政治家への不振につながっています。
思想と思想を戦わせても生まれるものはない。
安田講堂の陥落が一体何を残したかといえば虚しさです。
これ以後若者たちは体制にデモという形では異議を表さなくなりました。
政治や体制に刃向かっても詮無いという態度は、
参政権が与えられていない時代の話です。
現在参政権はあります。
その参政権をどう使うかはわたしたちの責任です。
この権利と責任の行使は私たち一人一人に委ねられています。
「ぼくらの七日間戦争」がいう「かっこういい」は、
「生き生き生きている」は「かっこういい」だけではないと思いますが、
世情は政治に関心を示さなくなった、
このことを言っているのだと思います。
民衆の無関心はこの世をコントロールするものに好都合です。
あれほど先人が苦労して得た参政権を、
誰もが履行する責任があると理解している若者は少なくなりました。
若者の政治への無関心は、
政治に老成した者の独壇場になっています。
しかしこの傾向は時を経て、
「核」の嘘にはじまり、
「体制」の虚構が明らかになる起爆剤になりました。
それがここにきてコロナというウイルス戦略で表に見えるようになったのです。
さてこのコロナ禍は自分たちの無関心が作り出した舞台装置です。
自分たちの無関心がこのウイルスを生み出したと気づくまで、
この騒ぎは続くでしょう。
この三次元の世界は二極化が宿命として備えられています。
常に「正反合」の弁証法で解決するものと教えられました。
しかしこの「正反」は「合」をもって終わりではなく、
この「合」の「反」を持ち出して弁証法は延々と続きます。
これを辞める時が来たようです。
これを辞めるための知恵を生み出すために、
この舞台装置を人類あげて作り上げたというのがわたしの考えです。
全ての人がこの状況を作り上げるのに加担しました。
この舞台装置は見事です。
今生きている人全部がこのコロナ禍から逃れることはできないからです。
つまり私たちは自ら望んでこの罠を自分に仕掛けたわけです。
この罠の二元論から出るにはどうしたら良いでしょう。
「打った人」は「打たない人」を批判すれば、
ジャッジしたことになります。
これは「正反」の弁償法的解決策です。
「打った人」にはその人なりの考えがあります。
その考えを「打たない人」は受け入れることはできますか。
「打たない人」は自分の正しさに固執しないでいられますか。
人類は、この見事な舞台装置を作るのに数千年かけました。
それだけ長い年月をかけなければできあがらないほど、
精緻で見事な舞台装置です。
さて弁証法は役に立ちません。
互いの欠点をあげつらっていては元の木阿弥です。
ここからはわたしの考えですが、
唯々意識的でいましょう。
周りで何が起きているか意識していましょう。
意識できる自分でいましょう。
コロナ禍に引きずられて疑心暗鬼になっては元も子もありません。
恐れてはいけないのです。
「ある」、「いる」ことを知りながら、
それとの間に距離を置いて、
意識しながらその存在を脅かさず、
その場を離れ、日常に身を置きましょう。
日常の何気ない幸せに五感を移しましょう。
それがこの世に生を受けたそもそもの理由なのですから。
表参道で中核のデモを目撃したときは、
わたしはそれを意識的に捉えることはできませんでした。
わたしの日常とそのデモとを切り離しただけでした。
今は違います。
コロナ禍はむしろわたしが作り出した幻想ともいえます。
だからこの実態のない存在に恐れは感じないでいられます。
距離を置きながら意識的でいること
これがコロナ禍への心構えではないかと思っています。
「ぼくらの七日間戦争」は最後に戦闘を挑まず、
知恵を使って終止符を打ちます。
この子供たちは七日間の間常に自分たちから湧いてくる知恵を信じ、
一人一人の枠を超えてゆきました。
これからの私たちもそうありたいものです。

(七里ヶ浜の神輿です)