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「わたしをからかう誕生日の夢」
今年の誕生日の朝見た夢です。
夢の題:火種を水で消す
夢本体:
【日本家屋の座敷にいる。
壁から火が上がる。
あわてて水をかけて火を消す。
畳から火がでる。
また水をかけて消す。
最初に気づいたのは机の上だったか?
そばに夫がいる感じがする。】
この夢を、
まどろみから醒めながら思い出すのは、
ちょっと辛かったです。
これまで誕生日を毎年欠かすことなく祝ってこられたわけでもなく、
さりとて自慢できるほどの不幸に見舞われた訳でもありません。
とはいえ、ここらでちょっとほっとしたい気分になって、
穏やかな夢でも見られたらいいなと、
微かな望みもあったのに・・・・・
家の中で火の手が上がるとは!
火の手が上がっているとは、
「わたしは怒っている」と知らされているのですから。

この人生、
ここに来るまで何かしら「炎」のつく症状に悩まされ続けてきたので、
自分では怒っていることに気づかなくても、
症状が怒りを抱えていることを知らせてくれます。
目覚めは良くなかったけれど、
この夢を思い出してふとあることに気付きました。
これまでも火が燃え上がる夢は何度か見ていましたが、
今回は火の手は上がっても、
それを一つ一つ消しているではありませんか。
「あらこれって、夢の神さまからのお誕生日祝いかもしれない」と思えたのです。
あぁ、これならもう「炎」のつく症状も軽くなるだろう。
悩みも遠のくだろうと気づいたのです。

この2、3日前でした。
何気に夫と話をしていて、
「わたしイライラしている」と思ったのです。
へ〜と思いました。
自分がイラついているとはっきり意識できたのです。
そのとき何がそうさせたか思い出せませんが、
長い結婚生活で夫に通じないことは山ほどあります。
それも生きる上でわたしが大切と思うことごとくが彼には通じません。
結婚生活が魂磨きというのはこのことだと重々承知していても、
わたしの考えや拠り所にしている信念信条を逆撫でしてきます。
彼には彼の考えがあり、
彼のペースがあるのだ、
そこを理解しなくてはいけない。
ここは忍耐だ!
よくよく自分に言い聞かせてきたつもりです。
でも、これは表向きで、
実際のわたしの我は、
想いの通じない夫に反発を繰り返してきたようです。
それで「炎」の付く症状に悩まされ、
自分の心の持ち様が忍耐や寛容ではなく、
怒りで対処していると、
その症状が教えてくれたのでした。

それが誕生日の2、3日前、静かに、
わたし怒っているなと自分の心模様を眺めていられる自分に気づきました。
ここまでくるのに長い年月を費やしました。
さて、いま白洲正子の「明恵上人」を読み返している最中です。
白州正子の明恵解釈は秀逸です。
目についた部分を本から要約すると、
13にして、『すでに年老いたり』と考えた明恵は、
肉体があるから、煩悩や苦悩も生ずるのだ、
いっそのこと死んでしまった方がいいと、
ある日狼に喰われようと墓場に行って夜を明かしたそうです。
すぐに山犬は現れて傍に捨てられた死骸は喰ったが、
明恵の身体はかぎまわっただけで喰われなかったとのこと。
それで13歳の明恵は狼の餌になるのは諦めたようですが、
16歳の時の夢が、
【狼が二匹現れて、自分を喰いたそうにした。
これこそ望むところと思い、
「此方へ来て存分に食べるが良い」というと、
傍へよって自分の身体を喰べはじめた。
『苦痛タエガタケレドモ、我ガナスベキ所ノ所作ナリト思ヒテ』我慢している内に、全部喰べ終
えた】とみるや、全身汗にまみれて夢が醒めたとのこと。
この夢の話は上人の弟子が書き留めた行状記にあるようで、
そこには、
「上人後ニ語ツテ云ク、
此夢ハ覚時ニ好楽トコロ夢中ニテナシシ試也」とあります。
これをわたし流に言い換えれば、
「日夜自分の望むところを夢で試しにやってみた」ということのようです。
つまり願ったことを夢で実現したということです。
この明恵上人の解釈は、
願望充足の夢と自らを諭し、
述懐しているところはなんとも美事としか言いようがありません。
中世の仏教界には現代に劣らぬ確かな夢への理解があったようです。
白州正子に言わせると、
「フロイドのようなことをいっていますが、
一旦自分が志したことは、
たとえ夢の中ででも、
実現せずには置かなかったのです。」と、
この言葉も美事です。
一般的には願望充足の夢は「安易さ」を表します。
この明恵の夢も願望充足なので、
煩悩をなくすには死ねばいいと、
短絡的に考える安易さに気付いて得た戒めに話は行っているけれど、
夢の中でさえ生きて喰われる痛さを堪えながら、
肉体が狼の胃袋に消えて自分の身体が消滅していくのを、
意識に力を込めて見続けている意志力には感心します。
さて、わたしの火の夢も願望充足の一つですと言いたいところですが、
何故明恵上人の夢とここで並べたかの理由をお話ししましょう。
明恵上人は死しても意識は変わらないということを夢の中で体験しました。
肉体は切り刻まれ形がなくなって、
喰べ尽くされたことを感覚と目で確かめられています。
つまり夢の中で五感は働きます。
更に意識の目は健全で正確に機能していることを知りました。
この意識の目が大切なのだ、究極なのだと、
16歳の修行僧が覚ったかどうかはわかりませんが、
それに近い納得を得られただろうと思います。
だから生きることこそが大切だと覚ったのでしょう。
この夢があるから彼の常に言っていた、
「あるべきようは」という心情になったのだと思います。
つまりわたしが言いたいことは、
夢が霊性のあり方を教示してくるということです。
表面的な願望充足というところに目を向けるのではなく、
意思が意識を生み、
その意識が意志を決定し、
この意志が現象を起こすのだと、
この夢が示唆しているとしたら、
私たちの意思を持った情熱はなんと美しいことでしょう。
わたしの火の夢に戻ると、
この夢で教えられたことは、
自分の怒りに意識的であろうと心掛けるようにということです。
そして今それができるということです。
心に浮かぶ情動に意識的であれば、
そこには意思があり、
意思が感情を教えてくれて意志を向ける方向が分かります。
わたしたちは本来意識だけの存在だと、
この二つの夢が教えてくれているように思います。
posted by 天の鳥船庵 at 17:07
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夢のメッセージの取り方