11月12日と12月10日のオープンクラスに空席あります。
ご興味のおありの方はご連絡ください。

(1週間ほど前急に寒くなった日。前日まで富士山に冠雪は見られませんでした。)
この話は、大変遅くなりましたが、
「桃太郎伝説と4神獣(2)」http://dream-art.sblo.jp/category/4560672-1.html
の続きです。
では、昔話「桃太郎」の解説をはじめる前に、
何故「桃太郎」なのかを考えましょう。
「太郎」という男性名の前に「桃」が付いているその理由を考えないと、
考察は片手落ちだと気付きました。
そこでまずは「桃」の意味を考えます。
「桃」で日本人が最初に思い浮かべるのは「桃の節句」でしょうか。
「桃の節句」は「ひな祭り」の別名で、
今では女の子が3歳を迎えることができたお祝いです。
陰暦3月3日には桃の花が咲くことから「桃の節句」と名前がつけられました。
「節句」は古代中国の陰陽五行説を由来として日本に定着した暦で、
その内の5つを江戸幕府が公的な行事・祝日として定めました。
それが人日(じんじつ)、上巳(じょうし)、端午(たんご)、
七夕(しちせき)、重陽(ちょうよう)の五節句です。
人日は1月7日の七草の節句、
上巳は3月3日の桃の節句、
端午は5月5日の菖蒲の節句、
七夕は7月7日の笹の節句・七夕(たなばた)、
重陽は9月9日の菊の節句となります。
後に、3月3日は女の子のお祝い日となり、
5月5日は男の子のお祝い日になりました。
ここで話題にする「桃太郎」という男の子の名前に、
「桃」が使われているのは何か深い意味があるはずです。
漢字「桃」の「兆」は象形文字で左右二つに離れるさまを表します。
つまり「木」+「兆」で実が2つに割れる木を意味します。
2つに割れることはめでたい兆しとされ、
「桃」の字が作られたようです。
正に桃の木のことで、
「桃太郎」は桃の木の実から生まれた人としての存在を表しています。
また「兆」は「きざし」です。
何かが起こるしるしです。
それは「吉兆」なのだという印です。
この地球の要素で造られた、
命の木、その実から生まれた人間が、
この人生で冒険をする。
その意味が「桃太郎」に込められています。
卑近な表現をすれば、
「人生の目的に沿って冒険をしなさい。
そのための人生なのだから叶えられないはずはない」。

(ススキ全盛)
では、ひな祭りが桃の節句と呼ばれるもう一つの理由を考えましょう。
桃の花の季節だから、「桃の節句」。
また桃には百歳(ももとせ)まで生きられるようにという
不老長寿の願いも込められていました。
しかしそれだけではなく、桃には邪気をはらう力があるといわれています。
鬼退治に行くのが「桃太郎」なのもそのためです。
もともと邪気を払う目的の上巳の節句が
「桃の節句」と呼ばれるようになったのも、自然な流れといえるでしょう。
邪気は鬼なのですから。
中国には長く「三柑の実」が吉兆を表すという考え方があります。
「桃・橘・柘榴」の三つの実が縁起の良いものという考え方です。
橘はみかん類を指すようで、橘に限ったものではないようです。
三柑の実である桃とみかんと柘榴の絵は陶磁器にも古くからあり、
女性の美と健康と多産を叶えるものの象徴として尊ばれてきました。
これは土の養分(土の気)を吸い上げ、
太陽の光(火の気)を浴びて、
雨(水の気)を受け、
木(木の気)が成長し、
その木に実った果実こそが豊かさ(金の気)となった証をいいます。
五行説そのものです。
更に「桃源郷」という言葉も中国にあります。
陶淵明(とうえんめい)の「桃花源記(とうかげんき)」に、
ひとりの漁師が桃林の奥に、
戦禍を逃れた者たちが肩寄あって暮らす村を見つけたというお話です。
ここから、「桃源郷=理想郷」という言葉になったという訳です。
そこで最後に「桃」といえば古事記です。
イザナギが黄泉の国に旅立ったイザナミを慕って会いに行きます。
黄泉の国からいざ帰ろうという段になって、
イザナミに「決して振り返らないように」と頼まれたにもかかわらず、
イザナギは好奇心に駆られてイザナミの朽ちた姿を見てしまい、
怒ったイザナミはイザナギを追いかけます。
その時イザナギは桃をイザナミに投げかけ、
無事逃げおおせたという有名な話があります。
ここから桃という果物の栄養成分が、
肉体細胞を活性化するらしいという話を読んだことがあります。

(同じ日の日没)
「桃太郎」の「桃」をざっとみてきて、
一番考えさせられたことは、
「桃」という漢字の成り立ちでした。
桃太郎物語の絵本をみると、
どれも実が二つに割れて仁王立ちしている桃太郎の勇姿が描かれています。
解字そのものが絵になっています。
これは実を割って出てくるもの。
それが一番ということです。
つまり自分の内側から出てくるもの。
それが一番ということです。
さて、和尚(OSHO)の「秘教の心理学」に「夢の心理学」の章があります。
これは夢に取り掛かるととても魅惑的な説で、
理解するのも難しいのですが、
ここに来てやっと和尚を理解するとっかかりを掴めたように思います。
それで和尚にとっての夢を簡潔に言えば、
「私たちには七つの身体がある。
物質体(フィジカル)、精気体(エーテル)、星気体(アストラル)、
精神体(メンタル)、霊体(スピリチュアル)、宇宙体(コズミック)、
涅槃体(ニルヴァーナ)だ。
それぞれの身体には特定のタイプの夢がある。」と、解説しています。
これに沿って七つのボディの夢の解説が続くわけですが、
その中
で、第六の宇宙体の説明に、
「(ここには)真如がある。
いまやなにも実在しないが実在がある。
ものごとはないが、源がある。
木は存在しないが、種子はある。」とあります。
この和尚の言葉と「桃太郎」がわたしの中では結びついたのです。
わたしたちは神の分霊として存在していますが、
常に神と繋がっている存在証明が夢に存在すると和尚は言うのでしょう。
桃がここまで壮大な話になるとは予想しませんでしたが、
ここに辿り着いてみると不思議なことは何もありません。
一時期「桃太郎」は戦意高揚のプロパガンダに使われました。
敵は外にいたのです。
しかし桃太郎の真の戦いは、
自己を知ることの冒険物語です。
敵は外ではなく内にいます。
そこで使える武器は家来の犬と猿と雉子になります。

(伊豆半島の付け根に日が沈んでいきます。)
という訳で、やっとここで次回から物語の解説に入れます。
尚、和尚の「夢の心理学」についていつかわたしなりの解説をしたいと考えています。
ご期待ください。