言わないでよいことを言って自分で自分を追いつめているかな?」(4)
ではなく、
「言っても詮のないことを言って自滅している」訳です。
そこでこれを七五調の戯れ唄にしてみました。
「悪いのはあなたと言って追いつめる。
気づいてみれば自滅の末路。」(5)

夢の神様の言葉(=夢の意)はパンチが効いて言い訳を許しません。
事ここに及んで、
初めてわたしは、
一体何を孤軍奮闘ドン・キホーテをやっていたのだろうと、
腰を据えて考えなくてはなりませんでした。
腫れ上がった無様な顔を鏡に映しながら、
これまで自分が夫にとってきた態度は、
神の御前に自分を置かず、
自分が夫の先を行く者かの様な振る舞いをしてきた、
その無様な格好が「これなのだ」とつくづく眺めたものです。
6月に入って、
夢療法家認定者研究会で、
風景構成法の絵を全員で描きました。

描き終わってみるとわたしの絵は奇妙でした。
絵の設定は、
春の終わりと初夏の間。
陽は顔を半分出しすっかりあたりは明るいけれど、
朝食にはまだ早い時間です。
男の子と女の子が家の庭で無邪気に遊んでいます。
家の東側には大きくてなだらかな山が一つ聳え、
山裾の南側を太陽が登っている図です。
家のそばを流れる川には岩が三つあり、
太陽の右側をその川の先が流れています。
ここがなんとも奇妙なのです。
川には家の前の道路と交差するところに橋がかかっています。
橋を渡ったところで川と道は並行に並び、
道は川に沿った小さい道と、
南に逸れて行く太い道になります。
奇妙なのは、細い道が川の流れに沿っている部分です。
ここが遠近法で描いたこの絵の次元に合わないのです。
この先川は創造の海に流れて行くのですが、
そこはもはやこの風景構成法の絵の中には無いことになります。
右側近未来の方向は次元を変える必要があると言われているのです。
往生際悪く、
それを認められない葛藤を抱えながらも腹を決めて、
絵から見えた「次元を変えること」を、
「今までやってこなかったことに取り組む」と受け取って、
それを考えることにしました。
これまでも散々考えに考えた結論で日々を過ごしてきたので、
これはとてもきつい作業でした。
しかし、これまでやって功のなかった実績のなさ(?!)、
失敗の数々、
身を切り刻んで生きている実感(これこそが魂磨き!)が、
自分の背中を押したのだと思います。
今までやってこなかったことが、
ふと心の中に浮かんだのです。
オショウのバグワン・ラジニーシは言います。
女は結婚すると夫の母になる。
それならそれを、
更にグレードを上げてやってみようと思えたのです。
面と向かってわたしの考えを言うのではなく、
わたしが自分の背中を見せればいいと思えたのです。
これは一見夫婦は対等ではないように思えますが、
そうではなく、女は女の特性を生かして行くことが、
夫婦の対等性を保てることになるということでしょう。
わたしの心の中で、
平安で優しい女性性と、
勇気と強い心をもつ男性性にバランスを持たせるには、
これを実行することが男性性で、
そこに自分が穏やかにいられることがわたしの女性性になります。
これができて初めて結婚生活が魂磨きの場となし得るのだと思います。
死の淵まで行った怪我は大いなる光明でした。
病院に通い、怪我の手当てを毎日夫にしてもらいながら、
わたしの心は少しずつ平安を取り戻しています。
結婚生活は互いが互いを大切に思う高まりからはじまる異性との関係です。
この高まりは神が世界を愛するのと同じエネルギーを持ってはじまります。
このベースがしっかりあることで、
魂磨きの局面を迎えられる土壌が作られます。
結婚関係だけが顕在意識で納得し獲得できた関係です。
だからこそ、
結婚生活の霊性に及ぼす成長の成果は計り知れません。
この体験は他の人間関係では成し得ないものです。
これまで何度も二人の関係が風前の灯火の様に感じて、
この先は消えてしまうのではと思うことがありました。
そんなときわたしはどうして彼と結婚したか、
その動機を思い出しその場に戻って、
自分の決意を再確認してきました。
人生の伴侶は彼でなくてはならない。
その理由や動機はただひとつ創造的でありたいと願ったからです。
その決意に戻ると、
「創造的」というわたしの願いと目標が、
わたしの努力を要求するのは当たり前と思える様になりました。
6月末大祓えの前日、
江ノ島神社の奥宮でお参りをしているとき、
珍しく賽銭箱の脇におみくじが置かれているのを見て、
多紀理毘売さまのお言葉をいただきたいとおみくじを引いてみました。
天の鳥船庵は多紀理毘売さまのご加護をいただいて開きました。
もちろんそれは10年前夢で知らされました。
おみくじの袋には弁財天の小さな像とおみくじが入っていました。
おみくじには「尽」とあり、
「夢に向かいありったけの力でベストを尽くそう
がむしゃらに努力すれば光が見えてくる
できるからやるのではない
やるから出来る」
とありました。
「夢」という字と弁財天の像は、
夢を仕事にしているわたしにとって特別な意味があります。
これこそ多紀理毘売さまがわたしに下さったお言葉と信じられました。
夫は夫ならではの歩幅と道筋とペースで人生に取り組みたいでしょう。
それを妻のわたしは目を離さず見守り続けること。
このことに忍耐が必要です。
そしてこの忍耐の中身をグレードアップさせることが、
魂磨きなのだと思います。
最終的に夫婦であっても魂は別なので、
彼のあり方はわたしを映す鏡です。
その像をどう理解するか、
やっとそれが見えた様に思います。
夫を鏡に自分を見て行くことについては、
別の機会に譲ることとしましょう。
長い話をここまでお読みいただきありがとうございました。
ー終わりー
友人でも話が合わなくなり疎遠になっていったり…
魂のレベルというかお互いそれぞれ成長によって少しずつ波長がズレてしまう事はよくある事だと思います。
その時に執着してしがみついていても苦しいだけで成長の妨げにしかならない場合もあります。
次のステージに進むには完結しなければならない関係もあるのではないでしょうか。
忍耐や学びの時期であるというよりは、もしかしたらご夫婦の縁が終わり次へ進む段階なのかもしれません。
だとしたら、執着せずに別れる事も選択肢のひとつなのではないでしょうか。
通りすがりにちらっとブログを読んだだけなので詳細はわからずにコメントしてしまいました。
違うと思ったらスルーして下さい。