「池にすむ水の精」が、
結婚生活を霊性磨きと捉えたときの、
成長プロセスを教えてくれているとお分かりいただけたでしょうか。
この童話をはじめて読んだときは、
この童話が夫婦の在り方、
成長の形を教えてくれていると理解はできたものの、
解説に着手できるわけもありません。
4半世紀過ぎた今解説を手がけて思うことですが、
この童話の解説には、
自分の結婚生活と照らし合わせられる歳月が、
是非とも必要でした。
そうは言っても、
これができている自分たちだと自負できる訳ではありません。
これまで夫婦の危機はいくらでもありましたし、
その危機を生んだ問題が解決している訳でもありません。
しかしこれからの道は、
この童話の示すと変わりない道を歩くことになるだろうという自覚は持てました。
それで今後結婚生活を投げ出すことがなければ、
他人からは「野暮の骨頂」の、
「天国にいるような気持ち」をふたりで味わう一瞬もあるでしょう。
この話を実生活で行きつ戻りつしながら、
最後の場面に到達しえる希望は持てています。
それが普遍的無意識といえる童話の持つ力なのだと思います。
フロイトはトラウマを発見しました。
これは20世紀の大発見です。
しかし近年これを受け入れられる人でさえ、
トラウマが原因で、
悩みと迷いの渦にいるという理解どまりです。
自分もトラウマに苦しみ、
その元のカルマという今生の課題に挑戦しているなら、
パートナーも同じくトラウマに手かせ足かせ状態でいます。
(もし、悩みも迷いも無い精神状態を保てているなら、
その方はトラウマを克服したかその影響下に無い訳で、
思い通りの人生を送れていることになります。)
トラウマを理解できた自分の子孫は、
出生に輝きと安心を感じられる人であって欲しい。
この環境づくりが、
トラウマを理解できたものの責任だと、
考えられるところまで到達したいものです。
子孫を輝きと安心の中に迎えるその前に、
その環境を作る理解と実行が人生の目的だという、
これをご理解いただきたいのです。
私たちは残念なことに、
社会的な偉業を成し、
それをもって社会に貢献することが人生の大目的としがちです。
しかしこの「池にすむ水の精」では、
それは「粉ひき」どまりの達成でしかありません。
このさき心の獲物を狩る「狩人」となって、
霊性へ取り組むことが必要です。
人間は本来精神も霊性も肉体も異性を求めます。
それが霊性に適い、
感情(=精神性の状態を教えるもの)の豊かさを育み、
肉体の要求を満足させられた瞬間に、
霊性が満たされる経験をします。
肉体の要求は霊性に適い、
霊性の望みが肉体で満たされていくので、
この感動は霊性を高みに引き上げてくれます。
感動(感情)を感じる心は霊性と肉体をひとつにまとめる要です。
これが心身に宿る愛の不思議です。
こころとからだと魂がひとつに溶けあった感動が愛の姿です。
現代はこの豊かな愛に裏付けされた愛の表現が、
必ずしも妊娠と結びついていません。
これを結びつけられれば、
これが自分の誕生時に自分に起きたことなら、
つまり両親のこころとからだの感動の一瞬が受精を迎え、
自分がこの世に誕生するきっかけとなったと納得できれば、
私たちは自分の尊厳を自分に持つことができます。
健全な自己像を持てれば、
そこにトラウマが入る隙はありません。
このお嫁さんの態度が「アモールとプシケー」のプシケーにつながります。
「プシケー」とは「psyche」。
スペルから推察できるように、
心理学「psychology」の語源になっています。
自己を知る作業程尊くやりがいがある業はありません。
「池にすむ水の精」に話を戻すと、
「粉ひき」ではじまった結婚生活は、
生活の糧を得る力をつけるのがその中心です。
これはサラリーマンが定年を迎えるまでのことです。
つまり引退を迎えることができて、
以後結婚生活は本格的な魂磨きに移ります。
この区分けはかなり乱暴です。
容赦のないところですが、
振り返って夫に収入が少ないとか、
ふたりで働いても生活が楽にならないと嘆く間は、
「粉ひき」止まりの結婚生活となります。
若い間は、あるいは生活費が頭を悩ましている間は「粉ひき」なのです。
「粉ひき」の意味を説明すると、
「粉」はパンの材料ですから生きる上での糧を得ることとなります。
生きる上での糧を求めること。
それで「粉ひき」は糧を得ることに精通できた人となります。
「狩人」は森に棲む動物を狩る人です。
更に森には秘めた才能が隠されているところです。
森の中には地中深くに鉱脈があり、
その才つまり宝石貴石の取り出し方に精通する必要があります。
ちょっと理解しにくい考え方かもしれません。
ここは日本的には、鎮守の森と考えて、
神意を知るところと受け取った方が良いと思っていますが、
この話の出所はヨーロッパなのでそちらに従っています。
簡単にいうと、
「粉ひき」は糧を得ること。
「狩人」は霊性の棲む肉体から生きる意味を学ぶこと。
別な言い方をすると、
本能的な衝動や思いは、
その深くに自分独自の才能が隠れてくれることを知らせています。
それを「狩る人」なので、
「狩人」は自己探求に取り組む人となります。
「粉ひき」から「狩人」への生きる姿勢の移行は、
結婚生活を霊性へのチャレンジへと変化させる欠かせないプロセスです。
結婚生活を霊性発達に役立てる変化変容を、
職業としての「粉ひき」から「狩人」で表します。
しかしここで終らず、
表立った苦境を乗り越えたその途端、
「女はひきがえるに、男はただの蛙に化けます」。
このメタファーをどのように受け取るか、
道半ばの今のわたしの考えを述べるなら、
苦境を乗り越えて、
更に蛙になって
相手を相手と認識できない期間が必要だというのでしょう。
それより寧ろ蛙でいる必要を説いているように思います。
ここを、自主独立の期間と仮定したらどうでしょう。
結婚しているからわたしは相手とつながっていると考えるのは間違い。
互いの独立のカギが「蛙の特性を自分のものにする」ではないでしょうか。
蛙は両生類です。
「いばら姫」のところでもお話ししたように、
ザリガニも両生類でした。
その両生のザリガニが妃の願いは成就すると教えてくれたのでした。
水中も生きられ、
陸上でも生きる術を習得してこそ、
子供が授かる訳です。
「池にすむ水の精」に戻ると、
夫と妻それぞれが、
自分の感情(水中)とこの世の成り立ち(陸上)を理解して、
互いが互いの在り方に影響されず独り立ちするまで、
相手を相手と理解できないと読むことができます。
実際の結婚生活に当てはめると、
これがとてつもなく努力のいる段階だと実感するでしょう。
一つ屋根の下に生活していても相手に言葉は通じません。
相手の生き方価値観が承知できません。
お互いすりあわせられるところが見つかりません。
どうしてこの人と生涯を共にすると決めたのか、
そのときの自分が理解できません。
その不如意な思いすべてを投げ捨てて、
感情を味わい尽くし、
地上に生きる術を獲得する。
それがここでは蛙という訳です。
このあとふたりは「羊飼い」になります。
次の段階の自己探求を「羊を飼う」ことで表します。
「狩人」は動物的本能の存在を知ることでした。
(この「動物的本能」という表現は舌足らずで誤解を招くでしょう。
動物たちをみていると分かるように、
彼らは地球と共存しています。
「地球と共存している」という感覚が、
人間より感性豊かとした方が良いかもしれません。)
「羊飼い」は、
「狩人」からその本能を飼いならす段階へ進むことを表しています。
この段階が夫婦単位で行われることはありません。
夫は夫、妻は妻で別々に体得しないといけないのです。
19節と20節の童話の最後のところはとても美しい。
19節では、ふたりがそれぞれに羊飼いとして経験を積んだ後、
お互いが羊飼いであると認識し出会うことで、
ひとりぼっちでないことをうれしく思う気持ちになります。
それでもふたりの特別な関係を思い出すことはありません。
男が笛を吹いて、それを聞いた女が涙を流します。
感情の浄化に涙を流すことができます。
相手を攻めるのではない、
本当の感情の浄化です。
その女の涙をまともに見ることができた男が、
このときはじめて女が自分の妻だと認識できます。
結婚生活で互いに互いの生き方に文句のあるうちは、
霊性磨きに成果は見込めないようです。
そして話し合いでお互いを確認し合っている間も、
魂磨きの成果は見込めないようで。。。。。
『「何故泣くの?」と羊飼い』が訊けて事態は急転直下の展開を見せます。
「何故泣くの?」と妻に言える男性になってはじめて、
統合がはじまるようです。
つまり成果が現れる。
神社の「鳥居」の説明に「自立」と「受容」の二本の柱があって、
参道を歩けると講座では良く話ます。
それに通じるお話でした。
ここでこの童話の解説をおしまいにしますが、
このお嫁さんとプシケーは自分の考えで夫を救い出していません。
尊敬する存在の智慧をたよりに行動するだけです。
自分が考え自分が計画したことを実行しているのではないのです。
ここの真理に関して今回は触れていません。
この点の大事なところは、
これこそが女性性の最たる特質です。
またどこかでこのことについてお話ししましょう。