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天の鳥船庵だより

2016年12月22日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」まとめ

DSC04409.JPG

「池にすむ水の精」が、
結婚生活を霊性磨きと捉えたときの、
成長プロセスを教えてくれているとお分かりいただけたでしょうか。

この童話をはじめて読んだときは、
この童話が夫婦の在り方、
成長の形を教えてくれていると理解はできたものの、
解説に着手できるわけもありません。

4半世紀過ぎた今解説を手がけて思うことですが、
この童話の解説には、
自分の結婚生活と照らし合わせられる歳月が、
是非とも必要でした。

そうは言っても、
これができている自分たちだと自負できる訳ではありません。
これまで夫婦の危機はいくらでもありましたし、
その危機を生んだ問題が解決している訳でもありません。
しかしこれからの道は、
この童話の示すと変わりない道を歩くことになるだろうという自覚は持てました。
それで今後結婚生活を投げ出すことがなければ、
他人からは「野暮の骨頂」の、
「天国にいるような気持ち」をふたりで味わう一瞬もあるでしょう。
この話を実生活で行きつ戻りつしながら、
最後の場面に到達しえる希望は持てています。
それが普遍的無意識といえる童話の持つ力なのだと思います。

フロイトはトラウマを発見しました。
これは20世紀の大発見です。
しかし近年これを受け入れられる人でさえ、
トラウマが原因で、
悩みと迷いの渦にいるという理解どまりです。
自分もトラウマに苦しみ、
その元のカルマという今生の課題に挑戦しているなら、
パートナーも同じくトラウマに手かせ足かせ状態でいます。
(もし、悩みも迷いも無い精神状態を保てているなら、
その方はトラウマを克服したかその影響下に無い訳で、
思い通りの人生を送れていることになります。)

トラウマを理解できた自分の子孫は、
出生に輝きと安心を感じられる人であって欲しい。
この環境づくりが、
トラウマを理解できたものの責任だと、
考えられるところまで到達したいものです。
子孫を輝きと安心の中に迎えるその前に、
その環境を作る理解と実行が人生の目的だという、
これをご理解いただきたいのです。

私たちは残念なことに、
社会的な偉業を成し、
それをもって社会に貢献することが人生の大目的としがちです。
しかしこの「池にすむ水の精」では、
それは「粉ひき」どまりの達成でしかありません。
このさき心の獲物を狩る「狩人」となって、
霊性へ取り組むことが必要です。

人間は本来精神も霊性も肉体も異性を求めます。
それが霊性に適い、
感情(=精神性の状態を教えるもの)の豊かさを育み、
肉体の要求を満足させられた瞬間に、
霊性が満たされる経験をします。

肉体の要求は霊性に適い、
霊性の望みが肉体で満たされていくので、
この感動は霊性を高みに引き上げてくれます。
感動(感情)を感じる心は霊性と肉体をひとつにまとめる要です。
これが心身に宿る愛の不思議です。
こころとからだと魂がひとつに溶けあった感動が愛の姿です。
現代はこの豊かな愛に裏付けされた愛の表現が、
必ずしも妊娠と結びついていません。

これを結びつけられれば、
これが自分の誕生時に自分に起きたことなら、
つまり両親のこころとからだの感動の一瞬が受精を迎え、
自分がこの世に誕生するきっかけとなったと納得できれば、
私たちは自分の尊厳を自分に持つことができます。
健全な自己像を持てれば、
そこにトラウマが入る隙はありません。

このお嫁さんの態度が「アモールとプシケー」のプシケーにつながります。
「プシケー」とは「psyche」。
スペルから推察できるように、
心理学「psychology」の語源になっています。
自己を知る作業程尊くやりがいがある業はありません。

「池にすむ水の精」に話を戻すと、
「粉ひき」ではじまった結婚生活は、
生活の糧を得る力をつけるのがその中心です。
これはサラリーマンが定年を迎えるまでのことです。
つまり引退を迎えることができて、
以後結婚生活は本格的な魂磨きに移ります。
この区分けはかなり乱暴です。
容赦のないところですが、
振り返って夫に収入が少ないとか、
ふたりで働いても生活が楽にならないと嘆く間は、
「粉ひき」止まりの結婚生活となります。
若い間は、あるいは生活費が頭を悩ましている間は「粉ひき」なのです。

「粉ひき」の意味を説明すると、
「粉」はパンの材料ですから生きる上での糧を得ることとなります。
生きる上での糧を求めること。
それで「粉ひき」は糧を得ることに精通できた人となります。
「狩人」は森に棲む動物を狩る人です。
更に森には秘めた才能が隠されているところです。
森の中には地中深くに鉱脈があり、
その才つまり宝石貴石の取り出し方に精通する必要があります。
ちょっと理解しにくい考え方かもしれません。
ここは日本的には、鎮守の森と考えて、
神意を知るところと受け取った方が良いと思っていますが、
この話の出所はヨーロッパなのでそちらに従っています。

簡単にいうと、
「粉ひき」は糧を得ること。
「狩人」は霊性の棲む肉体から生きる意味を学ぶこと。
別な言い方をすると、
本能的な衝動や思いは、
その深くに自分独自の才能が隠れてくれることを知らせています。
それを「狩る人」なので、
「狩人」は自己探求に取り組む人となります。
「粉ひき」から「狩人」への生きる姿勢の移行は、
結婚生活を霊性へのチャレンジへと変化させる欠かせないプロセスです。

結婚生活を霊性発達に役立てる変化変容を、
職業としての「粉ひき」から「狩人」で表します。
しかしここで終らず、
表立った苦境を乗り越えたその途端、
「女はひきがえるに、男はただの蛙に化けます」。
このメタファーをどのように受け取るか、
道半ばの今のわたしの考えを述べるなら、
苦境を乗り越えて、
更に蛙になって
相手を相手と認識できない期間が必要だというのでしょう。
それより寧ろ蛙でいる必要を説いているように思います。
ここを、自主独立の期間と仮定したらどうでしょう。
結婚しているからわたしは相手とつながっていると考えるのは間違い。
互いの独立のカギが「蛙の特性を自分のものにする」ではないでしょうか。

蛙は両生類です。
「いばら姫」のところでもお話ししたように、
ザリガニも両生類でした。
その両生のザリガニが妃の願いは成就すると教えてくれたのでした。
水中も生きられ、
陸上でも生きる術を習得してこそ、
子供が授かる訳です。

「池にすむ水の精」に戻ると、
夫と妻それぞれが、
自分の感情(水中)とこの世の成り立ち(陸上)を理解して、
互いが互いの在り方に影響されず独り立ちするまで、
相手を相手と理解できないと読むことができます。

実際の結婚生活に当てはめると、
これがとてつもなく努力のいる段階だと実感するでしょう。
一つ屋根の下に生活していても相手に言葉は通じません。
相手の生き方価値観が承知できません。
お互いすりあわせられるところが見つかりません。
どうしてこの人と生涯を共にすると決めたのか、
そのときの自分が理解できません。
その不如意な思いすべてを投げ捨てて、
感情を味わい尽くし、
地上に生きる術を獲得する。
それがここでは蛙という訳です。

このあとふたりは「羊飼い」になります。
次の段階の自己探求を「羊を飼う」ことで表します。
「狩人」は動物的本能の存在を知ることでした。
(この「動物的本能」という表現は舌足らずで誤解を招くでしょう。
動物たちをみていると分かるように、
彼らは地球と共存しています。
「地球と共存している」という感覚が、
人間より感性豊かとした方が良いかもしれません。)
「羊飼い」は、
「狩人」からその本能を飼いならす段階へ進むことを表しています。
この段階が夫婦単位で行われることはありません。
夫は夫、妻は妻で別々に体得しないといけないのです。

19節と20節の童話の最後のところはとても美しい。
19節では、ふたりがそれぞれに羊飼いとして経験を積んだ後、
お互いが羊飼いであると認識し出会うことで、
ひとりぼっちでないことをうれしく思う気持ちになります。
それでもふたりの特別な関係を思い出すことはありません。
男が笛を吹いて、それを聞いた女が涙を流します。
感情の浄化に涙を流すことができます。
相手を攻めるのではない、
本当の感情の浄化です。
その女の涙をまともに見ることができた男が、
このときはじめて女が自分の妻だと認識できます。

結婚生活で互いに互いの生き方に文句のあるうちは、
霊性磨きに成果は見込めないようです。 
そして話し合いでお互いを確認し合っている間も、
魂磨きの成果は見込めないようで。。。。。
『「何故泣くの?」と羊飼い』が訊けて事態は急転直下の展開を見せます。
「何故泣くの?」と妻に言える男性になってはじめて、
統合がはじまるようです。
つまり成果が現れる。

神社の「鳥居」の説明に「自立」と「受容」の二本の柱があって、
参道を歩けると講座では良く話ます。
それに通じるお話でした。

ここでこの童話の解説をおしまいにしますが、
このお嫁さんとプシケーは自分の考えで夫を救い出していません。
尊敬する存在の智慧をたよりに行動するだけです。
自分が考え自分が計画したことを実行しているのではないのです。
ここの真理に関して今回は触れていません。
この点の大事なところは、
これこそが女性性の最たる特質です。
またどこかでこのことについてお話ししましょう。


posted by バンナイ at 11:57 | Comment(0) | 池にすむ水の精

2016年12月21日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」まとめ

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「池にすむ水の精」が、
結婚生活を霊性磨きと捉えたときの、
成長プロセスを教えてくれているとお分かりいただけたでしょうか。

この童話をはじめて読んだときは、
この童話が夫婦の在り方、
成長の形を教えてくれていると理解はできたものの、
解説に着手できるわけもありません。

4半世紀過ぎた今解説を手がけて思うことですが、
この童話の解説には、
自分の結婚生活と照らし合わせられる歳月が、
是非とも必要でした。

そうは言っても、
これができている自分たちだと自負できる訳ではありません。
これまで夫婦の危機はいくらでもありましたし、
その危機を生んだ問題が解決している訳でもありません。
しかしこれからの道は、
この童話の示すと変わりない道を歩くことになるだろうという自覚は持てました。
それで今後結婚生活を投げ出すことがなければ、
他人からは「野暮の骨頂」の、
「天国にいるような気持ち」をふたりで味わう一瞬もあるでしょう。
この話を実生活で行きつ戻りつしながら、
最後の場面に到達しえる希望は持てています。
それが普遍的無意識といえる童話の持つ力なのだと思います。

フロイトはトラウマを発見しました。
これは20世紀の大発見です。
しかし近年これを受け入れられる人でさえ、
トラウマが原因で、
悩みと迷いの渦にいるという理解どまりです。
自分もトラウマに苦しみ、
その元のカルマという今生の課題に挑戦しているなら、
パートナーも同じくトラウマに手かせ足かせ状態でいます。
(もし、悩みも迷いも無い精神状態を保てているなら、
その方はトラウマを克服したかその影響下に無い訳で、
思い通りの人生を送れていることになります。)

トラウマを理解できた自分の子孫は、
出生に輝きと安心を感じられる人であって欲しい。
この環境づくりが、
トラウマを理解できたものの責任だと、
考えられるところまで到達したいものです。
子孫を輝きと安心の中に迎えるその前に、
その環境を作る理解と実行が人生の目的だという、
これをご理解いただきたいのです。

私たちは残念なことに、
社会的な偉業を成し、
それをもって社会に貢献することが人生の大目的としがちです。
しかしこの「池にすむ水の精」では、
それは「粉ひき」どまりの達成でしかありません。
このさき心の獲物を狩る「狩人」となって、
霊性へ取り組むことが必要です。

人間は本来精神も霊性も肉体も異性を求めます。
それが霊性に適い、
感情(=精神性の状態を教えるもの)の豊かさを育み、
肉体の要求を満足させられた瞬間に、
霊性が満たされる経験をします。

肉体の要求は霊性に適い、
霊性の望みが肉体で満たされていくので、
この感動は霊性を高みに引き上げてくれます。
感動(感情)を感じる心は霊性と肉体をひとつにまとめる要です。
これが心身に宿る愛の不思議です。
こころとからだと魂がひとつに溶けあった感動が愛の姿です。
現代はこの豊かな愛に裏付けされた愛の表現が、
必ずしも妊娠と結びついていません。

これを結びつけられれば、
これが自分の誕生時に自分に起きたことなら、
つまり両親のこころとからだの感動の一瞬が受精を迎え、
自分がこの世に誕生するきっかけとなったと納得できれば、
私たちは自分の尊厳を自分に持つことができます。
健全な自己像を持てれば、
そこにトラウマが入る隙はありません。

このお嫁さんの態度が「アモールとプシケー」のプシケーにつながります。
「プシケー」とは「psyche」。
スペルから推察できるように、
心理学「psychology」の語源になっています。
自己を知る作業程尊くやりがいがある業はありません。

「池にすむ水の精」に話を戻すと、
「粉ひき」ではじまった結婚生活は、
生活の糧を得る力をつけるのがその中心です。
これはサラリーマンが定年を迎えるまでのことです。
つまり引退を迎えることができて、
以後結婚生活は本格的な魂磨きに移ります。
この区分けはかなり乱暴です。
容赦のないところですが、
振り返って夫に収入が少ないとか、
ふたりで働いても生活が楽にならないと嘆く間は、
「粉ひき」止まりの結婚生活となります。
若い間は、あるいは生活費が頭を悩ましている間は「粉ひき」なのです。

「粉ひき」の意味を説明すると、
「粉」はパンの材料ですから生きる上での糧を得ることとなります。
生きる上での糧を求めること。
それで「粉ひき」は糧を得ることに精通できた人となります。
「狩人」は森に棲む動物を狩る人です。
更に森には秘めた才能が隠されているところです。
森の中には地中深くに鉱脈があり、
その才つまり宝石貴石の取り出し方に精通する必要があります。
ちょっと理解しにくい考え方かもしれません。
ここは日本的には、鎮守の森と考えて、
神意を知るところと受け取った方が良いと思っていますが、
この話の出所はヨーロッパなのでそちらに従っています。

簡単にいうと、
「粉ひき」は糧を得ること。
「狩人」は霊性の棲む肉体から生きる意味を学ぶこと。
別な言い方をすると、
本能的な衝動や思いは、
その深くに自分独自の才能が隠れてくれることを知らせています。
それを「狩る人」なので、
「狩人」は自己探求に取り組む人となります。
「粉ひき」から「狩人」への生きる姿勢の移行は、
結婚生活を霊性へのチャレンジへと変化させる欠かせないプロセスです。

結婚生活を霊性発達に役立てる変化変容を、
職業としての「粉ひき」から「狩人」で表します。
しかしここで終らず、
表立った苦境を乗り越えたその途端、
「女はひきがえるに、男はただの蛙に化けます」。
このメタファーをどのように受け取るか、
道半ばの今のわたしの考えを述べるなら、
苦境を乗り越えて、
更に蛙になって
相手を相手と認識できない期間が必要だというのでしょう。
それより寧ろ蛙でいる必要を説いているように思います。
ここを、自主独立の期間と仮定したらどうでしょう。
結婚しているからわたしは相手とつながっていると考えるのは間違い。
互いの独立のカギが「蛙の特性を自分のものにする」ではないでしょうか。

蛙は両生類です。
「いばら姫」のところでもお話ししたように、
ザリガニも両生類でした。
その両生のザリガニが妃の願いは成就すると教えてくれたのでした。
水中も生きられ、
陸上でも生きる術を習得してこそ、
子供が授かる訳です。

「池にすむ水の精」に戻ると、
夫と妻それぞれが、
自分の感情(水中)とこの世の成り立ち(陸上)を理解して、
互いが互いの在り方に影響されず独り立ちするまで、
相手を相手と理解できないと読むことができます。

実際の結婚生活に当てはめると、
これがとてつもなく努力のいる段階だと実感するでしょう。
一つ屋根の下に生活していても相手に言葉は通じません。
相手の生き方価値観が承知できません。
お互いすりあわせられるところが見つかりません。
どうしてこの人と生涯を共にすると決めたのか、
そのときの自分が理解できません。
その不如意な思いすべてを投げ捨てて、
感情を味わい尽くし、
地上に生きる術を獲得する。
それがここでは蛙という訳です。

このあとふたりは「羊飼い」になります。
次の段階の自己探求を「羊を飼う」ことで表します。
「狩人」は動物的本能の存在を知ることでした。
(この「動物的本能」という表現は舌足らずで誤解を招くでしょう。
動物たちをみていると分かるように、
彼らは地球と共存しています。
「地球と共存している」という感覚が、
人間より感性豊かとした方が良いかもしれません。)
「羊飼い」は、
「狩人」からその本能を飼いならす段階へ進むことを表しています。
この段階が夫婦単位で行われることはありません。
夫は夫、妻は妻で別々に体得しないといけないのです。

19節と20節の童話の最後のところはとても美しい。
19節では、ふたりがそれぞれに羊飼いとして経験を積んだ後、
お互いが羊飼いであると認識し出会うことで、
ひとりぼっちでないことをうれしく思う気持ちになります。
それでもふたりの特別な関係を思い出すことはありません。
男が笛を吹いて、それを聞いた女が涙を流します。
感情の浄化に涙を流すことができます。
相手を攻めるのではない、
本当の感情の浄化です。
その女の涙をまともに見ることができた男が、
このときはじめて女が自分の妻だと認識できます。

結婚生活で互いに互いの生き方に文句のあるうちは、
霊性磨きに成果は見込めないようです。 
そして話し合いでお互いを確認し合っている間も、
魂磨きの成果は見込めないようで。。。。。
『「何故泣くの?」と羊飼い』が訊けて事態は急転直下の展開を見せます。
「何故泣くの?」と妻に言える男性になってはじめて、
統合がはじまるようです。
つまり成果が現れる。

神社の「鳥居」の説明に「自立」と「受容」の二本の柱があって、
参道を歩けると講座では良く話ます。
それに通じるお話でした。

ここでこの童話の解説をおしまいにしますが、
このお嫁さんとプシケーは自分の考えで夫を救い出していません。
尊敬する存在の智慧をたよりに行動するだけです。
自分が考え自分が計画したことを実行しているのではないのです。
ここの真理に関して今回は触れていません。
この点の大事なところは、
これこそが女性性の最たる特質です。
またどこかでこのことについてお話ししましょう。


posted by バンナイ at 10:02 | Comment(0) | 池にすむ水の精

2016年12月20日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」20

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長々お付合いいただいた「池にすむ水の精」も、
今回でお話は終了です。
しかし今回で解説をお仕舞いにできそうにありません。
まとめとして次号も解説を続けることにします。

前回、「お嫁さんは何にもしていないのに、
おばあさんの言うなりだったのに」とお話ししたのですが、
しかし本当のところは、
どこかでお話ししたように、
このお嫁さんは人知を尽くして天命を待つことのできた人です。
これができないと結婚生活が魂磨きにはなり得ません。
(注:結婚生活が人によっては離婚で終止符を打つ場合があります。
その場合も結婚生活を魂の選択(=洗濯?)となし得るには、
自分の鏡に相手がもはや映らないと納得する必要があります。
これについてはまたの機会にしますが、
簡単には相手が自分の人生の問題を提供してくれなくなったので、
相手に対して関心がなくなるということです。
つまり好きもキライもなくなる訳で、
離婚へのゴーサインはこの自分の気持ちが証明してくれます。
別な言い方をすれば、
相手が嫌いなうちは離婚はまだで、
課題が残っているので勿体ないことになります。)

お嫁さんは連れ合いとの縁が魂に取って大切だと、
彼との結婚生活を全うしたいと願っていました。
この「全う」は人生を添い遂げると言う意味を超えて、
結婚内容をできる限り実り豊かなものにしたいという意味です。
これが結婚生活を霊性磨きとなし得る大切な基盤です。 
フロイトはここをリビドー(性欲)としました。
彼が言った言葉に霊性と精神性も組み入れるなら、
リビドーは真理を突いています。
心も身体も異性を求めるのは、
霊性のはたらきだというのです。
単に性欲が身体だけの要求だというのではなく、
リビドーという言葉で、
異性への魂の希求を表すならこれは真理です。

それをこのお嫁さんの思いに見ることができます。
生きる真理は、
大事な大事な人生のパートナーと霊的に切磋琢磨できることです。
これこそがこの世の成り立ちですが、
残念ながらここに賛同して下さる方はとても少ないです。

繰り返しますが、
これが人生の神髄です。
霊性を語るのに結婚生活を語らないでは通れません。
この全行程を「池にすむ水の精」が童話にしてくれました。

では、今回扱う最後の話に。

☆.。 .:*✣ ・ °☆.。 .:* ・ °☆.。 .:*✣ ・ °☆.。

グリム童話「池にすむ水の精」20
(注:童話本文を引用したところに【】を付けることにしました)


20:【或る晩のこと、満月が大空に輝いて、
羊はもう寝ていました。
羊飼いの男は、隠しから笛を取り出して、
誰でも聞き惚れるような、
けれども、いかにも悲しい唄を吹きました。
笛を吹いてしまってから気がつくと、女が泣きいっています。
「何故泣くの?」と羊飼いが訊いてみました。
「どうもこうもないわ!」と、女が返事をしました。
「あたくしが、笛の吹き納めにこの唄を吹いて、
恋しい恋しいお方のおつむが水の中から出たときも、
こんな風に満月が照らしておりましたの」
 男は女の顔を眺めました。
すると、まるで目隠しの切れが目から取れでもしたように、
この女こそ、自分のかわいいかわいい妻だと分かりました。
それからまた、女の方も男を眺めているうちに、
お月さまがその顔をまともに照らすと、
これが自分の夫だと分かりました。
ふたりは、抱き合ってキスをしました。
 ご夫婦は天国にいるような気持ちだったかしらなんて、
そんなこと訊くのは野暮の骨頂ですよ。】

いままで満月を意識して見るのはお嫁さんだけでした。
ここでやっとふたりが満月を見ています。
しかしふたりは目の前の相手が人生の伴侶であり、
かけがえのない自分の半身、
つまり統合に必要なものの鏡となってくれる、
霊性を持ち合わせた魂の仮の姿だと気付きません。

それに気付くには、
かつてお嫁さんの自分が極限状態の時に、
相手がいなくて哀しんでいることを嘆くだけに停まらず、
それを魂の望みが叶えられないことの哀しみと感じた心に戻って、
嘘の無い自分の思いに気付けたことを確認することでした。
(著者つぶやき:何だか小難しい表現で申し訳ない思いです。)

悲しい唄とはそういう意味でしょう。

ここに至って満月を夫と見るのです。
話の展開にとても大切なところです。
これまでお嫁さんはことあるごとに満月を見て、
大事な行動をとってきました。
月と女性のこころとからだはひとつに働きます。
こころとからだはひとつだと納得するからだを女性は持っています。
もっと正確を期すなら、
身体の変化が月の存在を教えてくれる、それが女性です。
しかし男性のこころとからだは太陽に惹かれるようです。
平塚雷鳥は「かつて女は太陽であった」と故事を引き合いに出して言いますが、
その視点ではなく、
心のはたらきが女性性は月に、
男性性は太陽に導かれるようです。

天空高く運行するこのふたつが、
この世の生のふたつの形(性)をサポートしてくれている事実から、
女性と男性の存在理由を考えましょう。

この世を去ったあの世では、
性の別のない魂の世界に移行します。
この世ではふたつの性が存在し、
そこにわたしたちは自分の魂を入れ込めて、
自分の属す性を生きています。
自分とは違う異性を求め片割れを求めて、
完結に向かって生きていきます。
これが統合に向けた道筋です。

女性は月を生きます。
この女性がパートナーの男性に言葉で精神性を説けば、
それはアニムスにのっとられたおんなとなってしまい、
月を生きることにはなりません。
「あたくしが、笛の吹き納めにこの唄を吹いて、
恋しい恋しいお方のおつむが水の中から出たときも、
こんな風に満月が照らしておりましたの」というお嫁さんの言葉は重要です。
「人生のパートナーと霊的に切磋琢磨できること」とは、
パートナーと真理を議論し合うことではなく、
女性が伴侶に、
伴侶自身の感情をただせる男性に育てていくことがベースになります。
頭で考える男性を、
感情を吐露できる男性に、
あるいは感動を味わえる男性にいざなって、
そこに立てたとき霊的に切磋琢磨していけるふたりになります。

今までこのお嫁さんは夫を助け出すために孤軍奮闘してきました。
ふたりはここに至るまで話し合ってきた訳ではありません。
この童話の大切なところはこうした点です。

夫をとがめ立てするのでもない。
苦労という事実を言い立てるのでもない。
「恋しいお方のおつむが水の中から出たとき」満月が照っていた。
お嫁さんはそう言います。
月の特色は太陽と比べることはできず、
太陽の特色を月の特色の次元で表すこともできません。

その別を持ったふたりが、
自分の羊を世話できたとき、
夫は妻の涙の理由を知りたいと思えるころまで成長できました。
だからふたりはふたりそれぞれの特徴ある存在でありながら、
ひとつの心を持つことができたのでした。

シャンシャン。

次号は粉ひきが羊飼いに変化することを中心に、
結婚生活の成長の段階を解説していきます。

                             ーつづくー

posted by バンナイ at 14:03 | Comment(0) | 池にすむ水の精

2016年12月16日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」19

DSC02838.JPG

思いがけず長々とお付合いいただいた「池にすむ水の精」も、
次回でおしまいです。
物語後半の主役であるお嫁さんは何にもしていないのに、
おばあさんの言うなりだったのにと思われますか。
ここが女性性の本領発揮の部分でしょう。
わたしの思いや考えで動いているのではない、
神さまがそう為さいとおっしゃるから、
それをしたまで。
お嫁さんはこう言うのではないでしょうか。

では、本題に。

☆.。 .:*✣ ・ °☆.。 .:* ・ °☆.。 .:*✣ ・ °☆.。

グリム童話「池にすむ水の精」19
(注:童話本文を引用したところに【】を付けることにしました)


19:【 幾巡りかの春が地を割って勢いよく出て来た頃、
男と女は、或る日のこと、
いつもの通り羊の群れを追い立てて外へ出たのですが、
どうかして、向かう前から行きあうことになりました。
男は、遠くに山坂に羊の群れのいるのを見つけて、
そっちの方へ自分の羊を追い立てて行きました。
ふたりは、とある山間で一緒になりましたが、
お互いに分かりませんでした。
それでも、これからはもう今までのように独りぼっちでないことを、
ふたりとも、うれしく思いました。
そのときから、毎日毎日、羊を追い立てるのに、
ふたりは、肩を並べて歩いて行きました。
これといって、格別口をきくこともないのですけれど、
何となく安心したような気持ちになりました。】

前回の終わりで、
「ふたりの胸は、悲しさ恋しさでいっぱいでした。」と、
お互いがお互いを求める気持ちを、
それぞれが自分だけで確認しあうプロセスを過ごしたと、
この物語は言います。
自分の不完全を認めるからこそ相手を求めます。
心にあいた穴を埋めるには、
その穴に合った質を持った、
つまり自分にふさわしい問題を提供してくれる相手が必要です。
それを求めて悲しく恋しい気持ちになります。
結婚したてのふたりではありません。
経済的な困難も克服し、
心の満足を夫ひとりが外に求めて、
その夫を、
現実生活こそが霊性磨きに最も相応しいのだと理解できている妻が、
夫を取り戻したのでもありません。
まだこの段階で妻の結婚生活の目的への理解は不十分です。

彼女は夫こそ自分の片割れだと魂の言うままに動いたのでした。
その後、それぞれが羊飼いを別々になし得なくては、
霊性磨きの結婚生活は続けられないとこの物語は言います。

相手に対する恋心がそもそも自分のどんな動機からはじまっているのか、
その原点に戻れると、
この後続く結婚生活を霊性磨きになし得ます。
時々そのチェックをしませんか。

どんなところが良くてこの人と結婚したのだろうか。
この「良くて」という言葉は軽くて、
ここに相応しくはないかもしれないのだけれど、
現実生活内で考えれば「良くて」は実感を伴います。
誰にも言えないけれど、
ときに「何が良くてこの人と結婚なんぞする気になったのだろうか」、
大抵の人は密かにそう思うものです。
現実味がありますよね。
これが続くと腹帯を締め直す。
丹田に力を入れて、
結婚生活は修業の場なのだと自分に言い聞かせられる訳です。

出会った頭初、
相手に好印象を持ったそこを心の中心に置ければ、
奇しくもそれを求めていま悪戦苦闘している自分に気付きます。
陽性転移した=恋心を持ったそこが目標という訳。

納得がいかない?

わたしですか?
わたしの場合は、
結婚相手に出来上がった人は遠慮しました。
それ相応に社会的地位もあり、
ステータスも持ち合わせている。
そんな人と人生を共にしようとは思えませんでした。
人格的にも経済的にも互いに努力するところが無いのなら、
結婚する意義がないと思ったのです。
これも又わたしの必要を言ったまで。
わたしなりの信念信条を結婚に、人生に盛り込んだつもりです。
ふたりで創造的日々を送りたい。
これがわたしの結婚生活への希望でした。
お陰さまでその線に添った日々を過ごしております(爆笑!)。
創造的であると言うことがいかに難行苦行か、
毎日がその連続です。

なかには霊性を第一義と結婚された方々がおいでです。
毎日を「霊的生活とは相手にどうある必要があるか」を考えている訳です。
考えさせられます。
相手が向けてくる態度に自分がどう反応するか。
自分の霊性の度合いが相手に向ける態度で如実になります。

つまり、結婚相手に自分が必要なことを認めさせたり、
相手を見て自分が相手に取って必要な存在だと確認するのではなく、
自分にとって相手が必要だと気付くまでに、
長い自己探求の時間が必要だというのです。
別々に自己探求をしなくてはいけないとこの物語は言います。
これがこの物語の神髄なのです。
自分にとって相手が必要。
この必要って何でしょう。
実際的に相手の「温もり」でしょうか。
人は人の温もりが必要ということだったらうれしいです。

羊を飼う、羊の世話をするとは、
自分の心の世話全体をいいます。
mind と spirit の世話をする訳です。
互いが自分の心の在り方に責任を持つことの奨励です。
とかく人は、特に夫婦の場合、
相手の在り方に不満を持ち易くなります。
心の中ではじまったちょっとした不満は以後際限なく広がります。
その戒め。

相手の欠点が気になると、
本来自分の心の異性を体現してくれている相手と同じ欠点、
あるいはそれに見合う別バージョンの課題が、
自分にあることを認めがたくなります。
自分の中に相手の要素を見つけるのが苦しく不可能にさえ思えます。
そんなとき、相手の一番嫌なところが、
1パーセントでも自分の中に見つかれば、
それが相手を結婚のパートナーと認める着地点になります。

なんと大変!
なんとみじめ!
これを超えて、相手に見ていた眼を自分を向けていく。
それが「自分の羊」を世話することです。

「ふたりは、とある山間で一緒になりましたが、
お互いに分かりませんでした。」
ここは意味深いところです。
自分の霊性を自分で世話をする大事なことに取り組んでいる人が、
自分以外にいると認めること。
そういう人が世の中にいるのだと認めること。
そういう人の存在を外に認めること。
それができるのは自分の心の世話ができてはじめて、
真の仲間の存在を知ることに繋げられるのでしょう。
その段階を経てはじめて、
格別口をきかなくても説明の要らない安心に到達できます。
この安心があって気付きにつながります。
そこのところは次回に。

                             ーつづくー


posted by バンナイ at 15:57 | Comment(0) | 池にすむ水の精

2016年12月08日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」18

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(画・坂内和則)

結婚生活は何よりの魂磨き。
それにどんぴしゃりの実践ばなしを受講生から聞きました。
これは長い講師生活で最良の部類にはいる体験談でした。

ご本人はとても静かな人で、
誰にでも好かれる口数少ない方ですが、
最初の頃クラスのなかで話しはじめるととめどがない。
口数の少ない方が、
折角話しはじめてくれたのだからと流れに任せていたのですが、
はなしが繰り返しになって、
これでは話す方も聞く方も辛くなりそうになるとストップを掛けていました。
そんな彼女が2年目にして、
少しずつはなしにまとまりが付きはじめたと同時に、
今度は身体の不調をさらりと口にしてくれました。
これは大きな前進のサインです。
思いと症状は表裏一体。
どんな時にその症状になるのと訊いたら、
実際にいま抱えている問題について話してくれました。
彼女の優しい思いやりを身近な人にして差し上げたいのだけれど、
その件に関して夫とは意見を異にしていると言うのです。

クラスのみんなのサポートもあり、
その案件を解決しようと、
意を決して夫に向き合って話しはじめたとき、
彼のなかに自分と同じものを見たと言うのです。
彼のなかのどうにもやりきれない痛みを垣間みたのでしょう。
(これを「痛み」と云って良いものかどうか迷いますが。)
その彼女の一瞬の気付きをキャッチしたのでしょう
夫のそれまでの頑な態度がほぐれたとのこと。
そして彼女の懸案を、
彼女と夫の願いを叶える形で実行に移せたとのこと。

結婚生活を魂磨きにできている人の実際を見せていただいたようで、
こんなはなしをし合える講座であって良かったと思ったことでした。

クラスの同期生のなかには、
この話がその後心の中でリフレーンしている方がいるそうです。
誰もが得たい人生の最高の体験だからでしょう。

さて、ではこの体験談、
「池にすむ水の精」ではもっと先のはなしになると思いますが、
いったいどのへんになるでしょうか。

☆.。 .:*✣ ・ °☆.。 .:* ・ °☆.。 .:*✣ ・ °☆.。

グリム童話「池にすむ水の精」18
(注:童話本文を引用したところに【】を付けることにしました)


18: 【水が引いて、ふたりの足がまた乾いた地面に着くと、
人間の形に戻りました。
けれども、相手がどこにいるのだか、どちらにも分かりません。
ふたりはまったく知らぬ他人のなかにいて、
その人たちはこのふたりの生まれ故郷を見も知らないのです。
高い山々、山間の深い谷のいくつかが、
ふたりの間にありました。
命を繋ぐ為に、男も女も、止むを得ず羊飼いをしました。
ふたりは長の年月、羊の群れを追い立てて、
野原を歩き森を歩きました。
ふたりの胸は、悲しさ恋しさでいっぱいでした。】

今までの話のプロセスを、
現実の自分の結婚生活に当てはめるには抵抗があったり、
自分とは関わりのない話と思われる方はそのままに受け取って下さい。
そんな夫婦もいるのだと対岸の火事と眺めて下さい。

魂磨きがどれほど強い意志を持って、
直視し挑み続ける必要があるか、
この物語はそこを教えてくれるのですが、
そうであればある程、
読み込むこちらも息切れがしてきます。
自分を叱咤激励しすぎない事も大切。
斜めに構えて、
他人の人生設計図のひとつと眺める遊び心も必要と思います。

物語に戻って、
蛙になったのは、
「池」の、つまり精神世界の、
あるいは自己探求への信念に溺れない「術」を身につけた事を表します。
(「術」という言葉が相応しいかはわかりませんが。)
精神世界を渡り歩くと、
精神世界特有の言葉に精通します。
精通はするけれど、
実践無く次に移ってしまえば、身に付きません。
栄養になりません。
それを溺れると言います。
蛙から人間に戻るとは溺れる可能性があると言うこと。
つまり現実世界に戻ると言うこと。
人間に戻った途端相手が見えません。
何が見えないかと言うと、
精神性を現実に行動するための立ち位置が見えないと言うこと。
(注:なるべく具体的に解説していくつもりですが・・・・)
何を精神の軸に据えているのかさっぱり分からない。
だから相手が見えない。
どれほど講座を受けても講座の体験はファンタジーの世界。
現実生活で実践に移せなければ、
元の木阿弥になりかねません。
でも幸い、池の精の話では元に戻りません。
現実で対応し続けようと踏みとどまったからです。
とは言えまったく知らぬ他人のなかでは信条が違うので、
理解を阻むもろもろがふたりの間に立ちはだかります。

ふたりは現実を霊的に過ごすことで相手を見失います。
結婚相手は自分の魂の片割れを具現化していますが、
それぞれが一個の魂なので個としての自律が不可欠で、
この段階を経る必要があるというのでしょう。

そうすることで、ふたりは別々に「羊飼いをする」と話が展開します。
このお話はドイツ生まれなので、
西洋文化に属するものです。
聖書のお話も多くは羊飼いのお話。
羊が魂を象徴し、
自己探求にともなって鍛錬していくことが「羊飼いをする」となります。
中国の十牛図(じゅうぎゅうず)は、
悟りにいたる道筋を牛を主題とした十枚の絵で表したもので、
同じような意味合いになります。

池にすむ水の精の物語は、
結婚生活を魂磨きの道場と合意ができた夫婦とは、
どうあるかという前置きがあります。
つまり、恋愛感情はこの夫婦の場合、
相手の生き方に尊敬できたところからはじまっています。
だから、相手の生きる目標が霊性発達であり、
悟りに向けたものだと言うそこの合意はあるのです。
だからこそ、霊性探検に溺れないという術を身につけて、
つまり蛙の泳ぐ術を身につけた後に人間になっても、
相手が認識できないのです。
もう少し説明しましょう。
目標は同じなのに、
最早物質主義的価値観で生きている訳でもないのに、
現実生活での相手の対処があまりに自分と違ってきます。
これはお互いが魂としての個性ある遍歴を持っているからです。
それぞれの自己探求は別々に、
野原と森を歩くこととなります。

野原は、自然との触れ合いで生きる喜びと平安を見いだすこと。
森は、自分に備わった才を見いだす冒険に乗り出すこと。

それへの精進は互いが別々に行うことだと、
池にすむ水の精は言っています。

                             ーつづくー


posted by バンナイ at 16:07 | Comment(0) | 池にすむ水の精

2016年12月01日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」17

DSC02611.JPG

1月14日(土)代々木で初夢ワークショップを開きます。
自分の初夢をわくわくしながら自分でメッセージを紐解いていく、
そんなワークにしましょう。
一年の計は元旦にありといいますが、
アセンションは確実に一里塚も超えて、
これからはやりたいことをやるしかない。
そして好きを自分の井戸から掬い上げていく。
どれだけ心豊かに生きられるかを目標にしましょう。
案内はこちらです。http://dream-info.sblo.jp

では、長らくお待たせした「池の精」に。

☆.。 .:*✣ ・ °☆.。 .:* ・ °☆.。 .:*✣ ・ °☆.。

グリム童話「池にすむ水の精」17
(注:童話本文を引用したところに【】を付けることにしました)

17: 【こちらはどんどん逃げましたが、
死は目の前に迫っています。
お嫁さんは、それこそ本当の死にもの狂いで、
声を限りにおばあさんの助けをお願いしましたら、
瞬きする間に、女はひきがえるに、
男はただの蛙に化けました。そして、
このときふたりに追いついた水は、
この人たちを殺すことはできませんでしたが、
ふたりを別れ別れに、遠く引き離してしまいました。】

死に物狂いで逃げ切ろうとしても、
最早自分の力だけではどうにもならない。
お嫁さんはまたもやそこに来ます。
絶体絶命と思ったとき。
神さまの助けが必要なとき。
それを叶えるには自分でことをはじめなくてはいけません。
このことは自分で何かができるということではなく、
助けを求める行為を自分自らが発していくということです。
「助けを乞う」これは愛の行為です。
自分への愛がなければ助けを求められません。
トリガーになる行為を自分で起こさないといけない訳です。
声を限りに助けをおばあさんに求めました。
これがこの場合の行為です。
この童話は神さまと言わず、
おばあさんとしています。
祈りは現実的であること。
それが「おばあさん」という表現に込められているようにも思います。

ここからこの童話は夢と同じく更に抽象的で象徴的になります。
この夫婦は池の精から完全に逃れられた訳ではありません。
つまりこの童話の表す「池」というものは、
精神世界であり、
心に関するこの世の思考形態であり、
あるいは精神を扱う団体をも表す言葉として考えられます。
ぶっちゃけ、特定の宗教を信じることも精神世界ですから。
もっと卑近には、そのときそのとき生きる指針と成る信念や信条も入るでしょう。

その池にはまった状態から、
目覚め抜け出ようとする力を発揮するのは、
女性性のはたらきです。
池にはまるのは男性性の心のはたらきです。

この両性が池の怖さを知って切羽詰まった時にこみ上げるもの。
それが助かりたいという感情です。
恐怖から抜けたいとこみ上げる感情にすべてを委ねた時、
池にはまった状態から、
池を泳ぐ術を身につけます。
それを、水際に泳ぐ蛙とここでは表現されています。

話を戻して、
お嫁さんはまずおばあさんに助けを求めました。
これをやり過ごさないで下さいね。
他に助けを求めるというこの行為がなければ助かることは無いのです。
多くの受講生はこれがむずかしいようです。
一番にプライド。
為にならぬ自尊心をそれと気付いて、
助けを求められるところまで行けないのです。
自分の事は自分でできるという自負心があります。
加えて、幸運の神は向こうからやってきてくれる。
困っているわたしの状態を神は知っているのだからと、考えるようです。

さて、蛙は「いばら姫」でも解説したように両生類。
水陸両用に生きる術を備えた特性を持っています。
水の中は感情を泳ぐ術を表します。
そして陸地は生活を営む術も備えていることを表します。

でもふたりは「ひきがえる」と「ただの蛙」に姿を変えます。
お嫁さんは「ひきがえる」。
狩人は「ただの蛙」。
ひきがえるは動作が鈍く毒液を出し、
鳴き声は低く身体は大きい。
ただの蛙は小さく敏捷。
種類が違うので意思伝達に不備が生じます。

さてこれを実際の結婚生活でどんな風に体験するのかを考えてみましょう。
それにはこれまでの経過を再確認しておく必要があります。

これと見初めた相手と人生の幸運を願って結婚したカップルがいました。
ふたりは一致協力して夢中に働き、
生活は豊かになり幸せでした。
しかし時経てものの繁栄が心の豊かさを生まないと気付き、
夫はひとり精神性を磨こうと心の探究に取り組みます。
そこはとても魅力的で、
夢中になり、
我を忘れて、
妻をも忘れてしまいました。
それを嘆いた妻は夫こそわが魂の片割れ。
ふたりの魂の統合を目指すことこそ真の目的と、
夫を魔の池の精から取り戻そうとあらん限りの努力を重ね、
夫を取り戻すことができました。

はてさて、そこで万々歳といかないのが夫婦というもの。
取り戻しては見たものの、
相手をじっと見てみたら、
あら、こんな人だったかしらとお互いが思うのです。
自分の命より大切な片割れのはずが、
あの難局を力を会わせ抜け出たのに、
相手に思いが通じません。
相手が理解できません。
相手にかける言葉も思いつきません。
まるで宇宙人!(この言葉よく聞きます)

ここに来て相手に自分の思いが伝わらない!
この狩人夫婦は二度もこの難局に遭遇します。
そして取った解決策で最初(夫が池にはまること)の方法が、
二度目(ふたりが蛙になること)の難局に役立ちません。

このお話はこう語ります。
結婚生活の真の真をこうして語ってくれています。
現実の私たちの結婚の歴史を考えてみると、
いままではこうしたお嫁さんの気持ちを、
語る場を持ちませんでした。
できている(注:表現がむずかしい!
心の満足を求めていると言い換えても良いかもしれません)
お嫁さんであればある程、
心の内を語ることはできません。
語ってしまえば、
夫の社会的評価が下がります。
まわりは自分を不出来な嫁と思うだけ。
良いことは何もありません。
この差も女性性と男性性の違いであり、
お互いの特性です。
昔の人はこうした童話を語り聞かせることで、
バランスを取っていたのでしょうか。

心の中を探究する大切さや必要性を、
畏怖や魅力で囲い込むのではなく、
心の成長にのみ焦点を当て、
結婚相手と共にいながら、
自分を主体にと生きる決意を固めた途端、
相手と意思疎通ができないと分かるのです。
それがお互い種類の違う蛙となるという流れです。
人間の姿で結婚生活が営まれていたのに、
苦難を乗り越えた途端、
蛙に成り変わるこの象徴をどう取らえたら良いでしょう。
むずかしいところですが、
夫婦で生活を営む段階から次に必要な学びは、
感情を理性で叩きのめさず、
感情をそのまま声と出せる生き物に成る必要があるということでしょう。
身体を自然の中で感じられる実在に落とし込むことを、
蛙に成ると言っていると思うのです。
(この辺の表現は再考の必要があると思っています。)
わたしたちはダーウィンの進化論を学びましたので、
動物は人間の前段階と受け取りがちですが、
地球を霊性高いものと受け取れたら、
そこに住む動物の形態は互いの学びのためにだけあるのかもしれません。
つまり、動物の純真さ。
疑いなく環境や状況を受け入れる質。
人間の師として動物が存在すると考えても良いかもしれません。

良くできたお話だこと?!
これは結婚生活を霊性磨きの修業場と捉えることのできた夫婦の話です。
そのふたりの間で話が通じないのです。
この妙をどう思われます。
独身者には分かりにくい?
既婚の方達はここでふんどしの締め直しが必要になります。
結婚生活を修業場とするかしないか、
その分かれ道に立つことになります。
離婚するしないは関係ありません。
仲が良い悪いも関係ありません。

「お互いが空気のような存在」になったとき、
そこは修業場とは遠くなる可能性が生じます。

修業場はマーシャルアートの道場のようなところ。
ふたりの間に熾烈な戦いがあってしかるべきです。
こうなってはじめて魂の磨くべき点に相手の一撃が加えられる?!

強烈な話になってきました。


                              ーつづくー

posted by バンナイ at 11:02 | Comment(0) | 池にすむ水の精

2016年11月01日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」16

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(伊豆半島にかかる天使の梯子群)

前回「糸」は「意図」だという話をしつこくしてきました。
夢からメッセージを引き出すには、
この「意図」が重要になります。
「意図」は「意志」であり、
これはまた「動機」と同義語です。
その「動機」を別の言葉で云うと「自由意志」になります。
これが魂が持つ原則です。

夢の擬装工作を解くには、
つまり訳の分からない夢を分けの分かるものと受け取るには、
夢の中の自分の言動に、
自分としての「意志」がどうあるかを見ます。
自分の意志はどこにあるか?
自分の動機は何か?
自分の意志のあり方を見ていくと夢の擬装工作は解けます。

自分の動機を自分で見つける作業は、
自分に正直にならざるをえません。
よく人は良い夢を見たと、
日頃願っていることが楽々と夢の中で実現しているのを見て、
これが予知夢だと捉えます。
しかし自分に正直になってみると、
自分が努力を避けて、
労なく願いが叶うことを願っているだけだと思い知らされます。
これを単に願望充足の夢と言います。

擬装工作解除法の例をお話ししましょう。
「いつになったらわたしは動けますか?」と、
夢で誰かに訊いているとします。
あなたは自己決定権を他人に預けていないでしょうか。
自分のことは自分で決めるのが自由意志の鉄則です。
決定は自分が下せると思っていないのでしょう。
ここでも動機を見ることで、
自分に正直になる作業に取り組むことになります。
もうひとつ例を挙げると、
夢の中で誰かとツーショットを撮りたいとします。
あなたの意図はどこにあるのでしょう。
その意図がメッセージをはっきりさせてくれます。
自分の純粋な願いを知ることで、
改めて自信がつく体験をするはずです。
夢への取り組みは不安を消す作業と同じです。
揺るぎ無い自分への自信を深める行程です。

満月の糸巻きにはこうした意図の意味があります。
満月の光に照らして、
あなたの意図という動機をはっきりさせましょう。

その見極めを満月の下で糸車を回す作業だとおばあさんは言います。

☆.。 .:*✣ ・ °☆.。 .:* ・ °☆.。 .:*✣ ・ °☆.。

グリム童話「池にすむ水の精」16
(注:童話本文を引用したところに【】を付けることにしました)


16: 【お嫁さんは、おばあさんに言われた通りのことを、
少しも違わないようにやってみました。
満月が姿を見せるが早いか、
この金の糸車を池の岸辺に持ち出すと、
亜麻がおしまいになって、
糸巻が糸ですっかりふくれあがるまで、
せっせと糸取りをしたものです。
ところが、糸車が岸辺に置かれるが早いか、
池の底が、先よりも荒っぽく、
ざわざわ鳴りだして、恐ろしい波が一つ、
あたふたと駈けるように押し寄せて来て、
糸車をさらって行きました。
と思う内に水柱が立って、それと一緒に、
夫の頭が、夫の身体全体が、にょっきり出ました。
早業で、夫は岸へ飛び上がると、
お嫁さんの手を取って、とっとと逃げ出しました。
けれども、ほんのわずかばかり逃げ延びただけで、
ざわざわ、ごうごう、
びっくりするような恐ろしい音をたてながら、
ぐんぐん、広い野原へ流れ込んできました。】

亜麻は麻よりも柔らかくかつ強靭で上等とのこと。
亜麻は下着に用いられます。
ということで女性の役割と強靭さがこれで結びつきます。

それから亜麻が帆布の材料になるのを知って、
宗像三女神を連想しました。
海上の大荒れに逆らわず、
やり過ごせる強靭さは女性的側面です。
女性は忍耐を味方に揺るぎ無い強さを持っています。
このお嫁さんのように。

結婚生活では、
これほど妻の側に裏側の重要な役目があると知ってどう思われますか。
不平等ですか。
理不尽ですか。
納得がいきませんか。
女性は貧乏くじを引いていますか。

確かに、この世的には割に合わないかも。。。。。
けれど、そこを脇において、
視点を、魂を第一義とすれば、
女性の立場の方が、
男性の役目を負うより、
人生の本題に取り組み易いかもしれません。

わたしという考えではなく、
夢に登場したおばあさんの助言に従って行動するとは、
一見自分がないように思えますが、
知恵を尽くし、思いを尽くして、
天に委ねるところまで来なければ、
そして最初の目的夫を取り戻すという、
断固とした望みを打ち立てられなければ、
この天に任された仕事はやりきれません。

お嫁さんはこの大事な仕事を、
満月の夜中にします。
心の活動は昼よりも夜の方が活発で効力を発揮するというのでしょう。
その甲斐あって、
夫は全身を池から引き上げることができます。
そして彼は間髪入れず岸に飛び上がります。
精神世界(注:この表現は仮のものです。
外側の価値観や思い込みなどと緩く受け取って下さい)
の怖さを心底知ったからです。
頭でもハートでも肚でもそれを納得した夫は、
精神世界を遊び戯れるのをやめ、
妻の感性を借りて、
地に体験を根付かせる生き方に取り組もうと決意します。
それがこのくだりです。

池の精は夫を捕まえようと執拗に追いかけてきます。
人が決意をして、
それを実行に移す時、
完全に思いを決めて行動に出たとしても、
心の中の整理がつくのは、
行動して良かった、
これが自分の道だと確信できる時、
結果が見えてからです。
それまでは自分の心に油断してはならないと、
追っ手を逃れる足に力を入れ続けなければなりません。

                              ーつづくー


posted by バンナイ at 14:46 | Comment(0) | 池にすむ水の精
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