
わたしが夢に取り組んだそもそもは、
エドガー・ケイシーが、
「自分を知りたければ自分の夢を知ること」と教えてくれたからです。
正確には、自己探求の道具は3つあって、
誰にでも与えられているそれは、
「祈りと瞑想と夢」ということでした。
祈りと瞑想はそれなりにすぐに実行できるとして、
自分の夢は自分で紐解かなくてはなりません。
これは厄介なことになったとは思いましたが、
それまでに医療リーディングの確かさを身をもって納得できていたので、
この提案はとても刺激的で信じられると思いました。
それに何より、自分を知ることは最もやりがいがあることです。
更にケイシーの言う夢と瞑想の位置付けも納得いくものでした。
両方があってこそ自分を正確に知ることができます。
瞑想だけでは自分の心のうちは測れません。
瞑想の中で起きる変化はうっかりすると、
自分を「一角の者(ひとかどのもの)」と錯覚させるし、
また遅々と進まない瞑想体験は自己卑下に陥らせる罠があります。
その点、夢は克服するための課題と自分の実情だけを知らせてくるので、
うっかり思い上がることもなく、
この世にいる限りは、
取り組むべき課題が見えている状態にしてくれます。
夢はファンタジーではないけれど、
人生への夢を持ち続けることは原動力です。
この違いを教えてくれるのは、
夢のメッセージを行動に移して得た確信が教えてくれます。
(しかし残念なことに、
夢を単に情報として受け取ったり、
夢を楽しむ材料にしている方々がいます。
ケイシーが言っているように、
夢は自分にとっての確かな助言です。
自分の中の神と繋がったところからくる夢に取り組むことは、
人として最高の能力開発方法でもあり、
超能力を開発するのが目的ではないけれど、
信頼に値する直感力をつけるにはベストの方法です。
従って自分を知るための夢は、
神への信頼を持って自己鍛錬のために使わなければ、
その真価を発揮することはありません。
そしてもっと大切なことは、
それを立ち位置としない限り、
夢が言わんとする核心に至ることはできないことです。)
そんな訳で誰にでも与えられた道具の一つである夢が、
自分を知る上で屈強の武器になると太鼓判を押されて、
その当時身震いしたものです。
とは言え夢が何を言っているのか、
その全体像を知ることは凡人の私には不可能に思えました。
夢に一生をかけても、
神秘のベールは取り除けないままで終わるだろうと考えていたのです。
それにケイシーの残した夢に関するリーディングは、
個人向けの具体的なアドバスがほとんどです。
そこから夢の全体像を知ることはまた難しいことのように思えました。
しかし一方で、
夢が言わんとするところ、
夢がいう生き方、
その方向性、
その真のところを知りたいものだと心の中には熱いものが芽生えていたのです。

夢が自分を知る屈強の道具なら、
霊性を磨く生き方が夢の中に含まれているはずです。
これなくして夢に取り組む意味もないと思ったのです。
そんな訳で長年月夢の助言を頼りに自分の夢に取り組む一方、
多くの方々の夢に触れて分かったことがあります。
それは「夢は結婚こそ霊的生き方の実践場」ということでした。
つまり夢は結婚を勧めていると分かったのです。
これは大変な発見でした。
子孫繁栄でも財産の継承でもこの世の栄耀栄華のためでもなく、
霊性のためにのみ結婚を勧めています。
これはわたしに取ってかなりの驚きでしたが、
腰を据えて考えてみれば、
ごくごく当たり前です。
つまり霊性を重んじた生き方をしたいなら、
志を同じくする異性を伴侶に、
自分の霊性の極みを相手に差出していくことが、
夢が提案していることと知ったのです。
いまわたしたちが生活している日本という社会は、
世界規模で眺めても成熟した人々の集合体でできています。
だからこそ夢という捉えどころのないものを頼りにしながら、
実態のない次元を超えた魂という自分の存在を、
この世に表していくことが課題なのでしょう。
その難しいところを異性との統合を目指していくことでしか、
人としての最高の願いを実現することはできないのです。
こうして気づいてきた「霊性の極みが結婚生活」を、
これからお話ししていこうと思っています。
あなたがもしこの人生で霊性を重んじた人生を送りたいなら、
結婚をその主たる目的に据えられることをお勧めします。
posted by 天の鳥船庵 at 10:37
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