11月のオープンクラスは「現在の医療から未来を創る」でした。
毎回オープンクラスはその時の出席者によってテーマが大きく変わります。
それが楽しみであり喜びです。
そして夢が持つピンポイントの指摘を教えてもらうことになります。
2月4日のオープンクラスの申し込みを受け付けています。
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(12月2日の江島神社)
これは続きものです。以前の記事はこちらをご覧ください。
http://dream-art.sblo.jp/category/4560672-1.html

(奥宮)
桃太郎伝説と4神獣(4)
今回から解説に行きます。
福娘童話集「桃太郎」から本文をお借りしました。
(これから下記の様に本文を✿で囲んで話を進ませます)
✿ むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へせんたくに行きました。 ✿
解説:昔話やお伽噺の主人公の親が、
若く元気発剌なことは滅多にありません。
その代表的な例は旧約聖書の創世記に出てくるアブラハムとサラの夫婦です。
アブラハムが100歳でサラが90歳の時に嫡子イサクが生まれました。
アブラハムの享年は175歳ですから現代の寿命とは違っていても老年です。
イサクの誕生は神の啓示が何度もあっての結果でした。
老いたふたりは自分達に子供ができるとは信じていませんでしたが、
啓示通りにイサクは生まれました。
子供の誕生も人生のあらゆる出来事も、
自分の意思ではなく神の思し召しであることを、
身を持って体験していたのでした。
だから後に生贄にイサクを差し出すようにと神の啓示があれば、
それにも従えるほどアブラハムにとって神への信頼は篤いものだったのです。
自分の意思通りに人生を生きるのではなく、
大いなる力とその意志の前に人生を捧げられる強い信念がある人に、
物語の主人公を任せるのが物語の常道です。
このように桃太郎を育てたおじいさんおばあさんもその例外ではありません。
老いているということは、
人生の艱難辛苦を経験しているということと同義語です。
そして我を生きるのではなく思し召しを生きるという姿勢を保てる人が、
主人公の養育にあたります。

(何日か前の天使の梯子)
だから子供を育てる者には叡智が欲しいと物語は諭します。
そこで主人公の親を若くせず年寄りに設定します。
子供を育てるには、
「子供自らの魂が願う生き方を読み取れるだけの忍耐力を持った人物」であって欲しい
という願いがこの物語にはあります。
親が若いと親の我欲が出て親の意向で育てがちです。
親が理想とする人物像や自分が叶えられなかった方向に子供を誘導しがちです。
そこを踏みとどまり、
まずはその子の特性がどういうものか、
何が好きか、
何に興味を持つか、
何をしているとその子の魂が喜ぶか、
どういう時に素直な反応が見られるか、
これらに時間をかけて観察できる余裕と忍耐が欲しいのです。
子供そのものの魂が何を望んでこの地上に生を受けたのか、
それを掬える力量が欲しいということで、
物語は山に柴刈りをするお爺さんと、
川に洗濯をしに行くおばあさんを桃太郎の教育係にしました。
子育ては奉仕です。
育児はボランティアなのです。
この老夫婦は全編を通して桃太郎に意見を言いません。
それも考えてほしいと昔話は老いた夫婦をその役に当たらせたのでしょう。

(昨日の富士山)
繰り返すと、
子育ては、これから成長していく子供の魂の願いを、
掬い出せる者でなくてはいけないのです。
物語はそこをはっきりさせて老成した者を教育者にします。
物語全編でこの親代わりを務めるおじいさんおばあさんは桃太郎に指示を出しません。
育てる側の我欲を傍に置いて、
子供の特性に注意を払える者こそ親の資格があると物語は言っているようです。
そして育てる者の生き方・生きる姿勢も問題にしています。
このおじいさんとおばあさんは自然と調和して生きています。
おばあさんは川へ洗濯に行きます。
このたった1行を説明するには膨大な文章が必要かもしれません。
わたしたちは近代文明依存型の自然に敵対した形をとった生活をしています。
それとは真逆の生活理念を問われています。
生活の全てを支える水が身近にあって、
日用にすぐに役立つ環境が子育てには必要です。
少なくとも水の大切さや扱いに気を配れる心構えが女性の親の側に必要なのです。
それも飽きずに毎日心と体と身の回りの「洗濯」に励むこと。
それができること。
では男性の親に求められる特性はというと、
「柴刈り作業で生計を立てられる者」です。
「柴刈り」の「柴」とは、山林の中の枯れ枝のことを指します。
昔枯れ木倒木をかき集め、それを街に売り歩いて生計を立てた人がいます。
余談ですが、
以前小学校の庭に建っていた二宮金次郎像は、
この枯れ枝を集めて背負っている姿です。
柴刈りをして生計を立てるお爺さんは、
自然を壊さず自然のお零れ(おこぼれ)で生活をするという心構えの表れです。
いまや絵に描いた餅にもなり得ないほどわたしたちとっては遠い理想の生活かもしれません。
わたしたちは都会に密集して建つビルに寝起きし、
自然の磁場とは遠い生活をしています。
人と人が触れ合う距離は近すぎて、
それとは反比例するように人と人の心が触れ合う距離は遠くなりました。 ―つづくー

(12月12日の富士山)