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天の鳥船庵だより

2017年01月01日

大事や危険を知らせる犬

大事や危険を知らせる犬1.JPG
(三浦半島を昇る初日)

大事や危険を知らせる犬2.JPG
(初日の出に映える富士山)

大事や危険を知らせる犬3.JPG
(熊野神社の餅つき)

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。

今年は事例集を記事にしていきたいと考えていますが、
今回は辞書に載せなかった「犬」の意味について考えてみます。

先日扱った夢に犬が登場しました。
犬はたいてい「かわいがって」と「食べ物ちょうだい」を、
ワンワンキャンキャンで伝えてきますが、
今回のはそんな本能的欲求とは違って、
別の心の側面や使える心の機能を表しているように思いました。

犬を飼われている方はお気づきのように、
動物は常でないこと、
尋常ではないこと、
危険を察知する能力に優れていて、
それを飼い主に知らせようとします。

そんな大事を知らせるための犬として、
夢に登場したのでしょう。
夢主さんは感情的に辛い目にあって、
なんとかこの感情のうねりをやり過ごしたい、
この体験を経験の宝にしたいと願っても、
そうできないと思っていたようです。
そこで夢は、
洪水の前に立ちはだかる犬を夢に見せて、
「大丈夫。大事は無いよ」と伝えてきました。

夢の犬や動物は、大事に立ち向える心の健康を伝えているようです。


posted by バンナイ at 18:02 | Comment(0) | 単語解説

2016年12月28日

今年の初夢はきつかった

今年の初夢はきつかった.JPG
(江島神社わだつみの神)

今年のわたしの初夢が、
この一年を通してどのように意味があったかをお話ししましょう。
毎年初夢を見るのを楽しみにしています。
初夢がその年の心構えを教えてくれるし、
方向性が見えるので、楽観的になれるからです。
しかし今年の初夢は、
見なかったことにしたいと思ったほど、
例年にないものでした。

夢は、
「まっ白なワンピースにシミがあるので、
そのシミを抜こうと、
溶剤を溶かしたバケツに入れたところ、
バケツの水を床にこぼしてしまう」というのです。

芳しい夢ではありません。
でもこの初夢を見なかったことにはできない。
深呼吸をしながら、
この夢を受け入れようと覚悟を決めました。

服にシミは、態度を改める必要をいいます。
その為の感情の浄化に失敗し、
床を汚すのですから、
下半身のどこかに症状が出るという予知的なメッセージもあります。

2月11日に車で1時間ほどの街に買い物に出ました。
穏やかでも底冷えのする日でした。
車を駐車場に置いて、
午前中の人影まばらな街を散策がてら歩いているうちに、
突然気分が悪くなり、
吐き気を覚え震えが来たのを覚えています。
ゆっくり歩きながら、
なんとかこの場をやり過ごし、ことなきを得たい。
そばにいる夫のオロオロした姿に、
いっそう自分を制したいと思ったことです。

吐いてしまえば、
落ち着きを取り戻し、
しばらく休憩をして運転に支障も無く家に帰り着きました。

軽い胃腸風邪だったようで大事にはなりませんでしたが、
これが初夢がいう身体から始まった浄化の第一弾でした。

以後、春遅く膀胱炎で2日入院したり、
夏は寒暖の差に必死のおもいで過していたように思います。
それが11月初めに又膀胱炎をぶり返し、
やっと12月も下旬になって、
症状に悩まされなくなり、
自分の身体を取り戻せているところです。

11月の膀胱炎のぶり返しの2日前、
最終試験を受けて答案にとりかかる夢を見ています。
作業は遅遅と進まない様子ですが、
答えは知っていると思っています。

私はこの一生を通じて、
身体を通して霊性を学ぶ道を選びました。
子供の頃大病をするたびに、
身体が甲冑と思えて、
その不自由さに難儀しました。
今年の学びは要らぬ思いが心を占拠するが否や、
身体の弱いところを集中攻撃する、
その心と身体のメカニズムを理解させられたような気がします。
子供の頃は何故病気になるのか分かりませんでしたが、
今年の経験は、
正にタイムラグのない心と身体の直結を体験したのです。

そのトリガーが夫のイライラをかわせない私の霊性の弱さにあります。
夫もわたしも、
どちらも発展途上の魂が互いを磨き砂に生活している訳ですから、
ときに痛みを伴うのは当たり前でも所詮は別の魂。
磨き合うのは自らの気付きでしかし得ない作業なのに、
相手のいらだちに不満があるので、
相手の問題と自分の問題を別にできない。
相手のいらだちを自分に向けられたものと受け取るのでそれがかわせない。
そんな霊性のありようを知らされる必要がわたしにあった訳です。

身体と心が直結しているのを、
無理にでも理解するようにと、
症状になるのを克明に見させられた一年でした。

症状が出ても取り立てて仕事に差し障りがないように、
仕事と仕事の合間を上手にすり抜けて病状が現れるのを、
神さまとわたしの魂が相談して、
わたしに気付きをもたらそうと画策していたように思えます。

今年の初夢を振り返ると、
シミはシミ程度の大きさで、
ワンピースを処分しなければならないほどのものでもありません。
床にこぼれた溶液も大量ではなく、
雑巾一枚で方がつくくらいのものです。
大事には至らないと初夢は教えてくれていました。
こうして今年の初夢が教えてくれたテーマの経緯を考えれば、
物事はそれほど大事ではありませんでした。

この初夢の楽観的なところを、
もっと仔細に検討しておけば良かったと反省しています。

さて、こうして2016年を、
ちょっと厳しかった、
身体と心の折り合いが付け難かった、
あるいはわたしのように心と身体のメカニズムを教えられた1年だったと、
納得されている方々には、
これに続く2017年は、
心と身体をひとつに活動できる年になっていくだろうと思っています。
これは、これ迄がどうあれ、
自分のペースを捉え、
自分の好きを本分に楽観的に行動できれば、
創造の年になるという展望を持ってのことです。

来年の初夢からメッセージを読み取る、
初夢ワークショップを開きます。
お問い合わせはこちらです。


posted by バンナイ at 11:28 | Comment(0) | 夢の活用法

2016年12月26日

養成講座11期石川千佳子講師を迎えて

DSC05053.JPG

DSC05050.JPG

一昨日のクリスマスイブは
石川千佳子講師を迎えて養成講座のみなさんと食事を共にしました。

いつも千佳子講師をお迎えした日は、
食事を共にするようになりました。
千佳子講師の授業内容は、
受講生にとってもわたしにとってもいつも以上に濃厚なので、
遠路帰宅する前にみなさんも一緒に一息入れたいとはじめたことです。
それも一品持ちよりの食事会です。
受講生はレポート作成と他のケースの読み込みを済ませ、
その上で一品をこの日のために用意する訳です。

当日石川千佳子講師は、
医療現場をソーシャルワーカーとして25年以上の経験をもとに、
受講生が提出した逐語訳レポートを読み込んでおいてくれます。
その上で天の鳥船庵においでになって、
ケースカンファレンスとスーパーバイズを、
グループの力動のなかでしてくれます。
千佳子講師がおっしゃるには、
夢が媒体なのでこういう方式が成り立つのだそうです。

千佳子講師の言葉はソフトで心地よく、
独特の緩急がおありでその着眼点の鋭さに誰もがショックを受けます。
それは心地よいショックです。
心地よいショックなので、
素直に誰もがそれを受け入れてみようと思えます。

この講座の目指すところは、
自分が他人にどういう態度で接しているかを知ることです。
それを知った上で、
自分が自分をどう扱う必要があり、
自分が目指すこれからの方向を考えることです。

写真のみなさんのお顔は、
濃厚な一日を無事に終えた高揚感と安堵感で輝いています。


posted by バンナイ at 07:17 | Comment(0) | グループセッション

2016年12月22日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」まとめ

DSC04409.JPG

「池にすむ水の精」が、
結婚生活を霊性磨きと捉えたときの、
成長プロセスを教えてくれているとお分かりいただけたでしょうか。

この童話をはじめて読んだときは、
この童話が夫婦の在り方、
成長の形を教えてくれていると理解はできたものの、
解説に着手できるわけもありません。

4半世紀過ぎた今解説を手がけて思うことですが、
この童話の解説には、
自分の結婚生活と照らし合わせられる歳月が、
是非とも必要でした。

そうは言っても、
これができている自分たちだと自負できる訳ではありません。
これまで夫婦の危機はいくらでもありましたし、
その危機を生んだ問題が解決している訳でもありません。
しかしこれからの道は、
この童話の示すと変わりない道を歩くことになるだろうという自覚は持てました。
それで今後結婚生活を投げ出すことがなければ、
他人からは「野暮の骨頂」の、
「天国にいるような気持ち」をふたりで味わう一瞬もあるでしょう。
この話を実生活で行きつ戻りつしながら、
最後の場面に到達しえる希望は持てています。
それが普遍的無意識といえる童話の持つ力なのだと思います。

フロイトはトラウマを発見しました。
これは20世紀の大発見です。
しかし近年これを受け入れられる人でさえ、
トラウマが原因で、
悩みと迷いの渦にいるという理解どまりです。
自分もトラウマに苦しみ、
その元のカルマという今生の課題に挑戦しているなら、
パートナーも同じくトラウマに手かせ足かせ状態でいます。
(もし、悩みも迷いも無い精神状態を保てているなら、
その方はトラウマを克服したかその影響下に無い訳で、
思い通りの人生を送れていることになります。)

トラウマを理解できた自分の子孫は、
出生に輝きと安心を感じられる人であって欲しい。
この環境づくりが、
トラウマを理解できたものの責任だと、
考えられるところまで到達したいものです。
子孫を輝きと安心の中に迎えるその前に、
その環境を作る理解と実行が人生の目的だという、
これをご理解いただきたいのです。

私たちは残念なことに、
社会的な偉業を成し、
それをもって社会に貢献することが人生の大目的としがちです。
しかしこの「池にすむ水の精」では、
それは「粉ひき」どまりの達成でしかありません。
このさき心の獲物を狩る「狩人」となって、
霊性へ取り組むことが必要です。

人間は本来精神も霊性も肉体も異性を求めます。
それが霊性に適い、
感情(=精神性の状態を教えるもの)の豊かさを育み、
肉体の要求を満足させられた瞬間に、
霊性が満たされる経験をします。

肉体の要求は霊性に適い、
霊性の望みが肉体で満たされていくので、
この感動は霊性を高みに引き上げてくれます。
感動(感情)を感じる心は霊性と肉体をひとつにまとめる要です。
これが心身に宿る愛の不思議です。
こころとからだと魂がひとつに溶けあった感動が愛の姿です。
現代はこの豊かな愛に裏付けされた愛の表現が、
必ずしも妊娠と結びついていません。

これを結びつけられれば、
これが自分の誕生時に自分に起きたことなら、
つまり両親のこころとからだの感動の一瞬が受精を迎え、
自分がこの世に誕生するきっかけとなったと納得できれば、
私たちは自分の尊厳を自分に持つことができます。
健全な自己像を持てれば、
そこにトラウマが入る隙はありません。

このお嫁さんの態度が「アモールとプシケー」のプシケーにつながります。
「プシケー」とは「psyche」。
スペルから推察できるように、
心理学「psychology」の語源になっています。
自己を知る作業程尊くやりがいがある業はありません。

「池にすむ水の精」に話を戻すと、
「粉ひき」ではじまった結婚生活は、
生活の糧を得る力をつけるのがその中心です。
これはサラリーマンが定年を迎えるまでのことです。
つまり引退を迎えることができて、
以後結婚生活は本格的な魂磨きに移ります。
この区分けはかなり乱暴です。
容赦のないところですが、
振り返って夫に収入が少ないとか、
ふたりで働いても生活が楽にならないと嘆く間は、
「粉ひき」止まりの結婚生活となります。
若い間は、あるいは生活費が頭を悩ましている間は「粉ひき」なのです。

「粉ひき」の意味を説明すると、
「粉」はパンの材料ですから生きる上での糧を得ることとなります。
生きる上での糧を求めること。
それで「粉ひき」は糧を得ることに精通できた人となります。
「狩人」は森に棲む動物を狩る人です。
更に森には秘めた才能が隠されているところです。
森の中には地中深くに鉱脈があり、
その才つまり宝石貴石の取り出し方に精通する必要があります。
ちょっと理解しにくい考え方かもしれません。
ここは日本的には、鎮守の森と考えて、
神意を知るところと受け取った方が良いと思っていますが、
この話の出所はヨーロッパなのでそちらに従っています。

簡単にいうと、
「粉ひき」は糧を得ること。
「狩人」は霊性の棲む肉体から生きる意味を学ぶこと。
別な言い方をすると、
本能的な衝動や思いは、
その深くに自分独自の才能が隠れてくれることを知らせています。
それを「狩る人」なので、
「狩人」は自己探求に取り組む人となります。
「粉ひき」から「狩人」への生きる姿勢の移行は、
結婚生活を霊性へのチャレンジへと変化させる欠かせないプロセスです。

結婚生活を霊性発達に役立てる変化変容を、
職業としての「粉ひき」から「狩人」で表します。
しかしここで終らず、
表立った苦境を乗り越えたその途端、
「女はひきがえるに、男はただの蛙に化けます」。
このメタファーをどのように受け取るか、
道半ばの今のわたしの考えを述べるなら、
苦境を乗り越えて、
更に蛙になって
相手を相手と認識できない期間が必要だというのでしょう。
それより寧ろ蛙でいる必要を説いているように思います。
ここを、自主独立の期間と仮定したらどうでしょう。
結婚しているからわたしは相手とつながっていると考えるのは間違い。
互いの独立のカギが「蛙の特性を自分のものにする」ではないでしょうか。

蛙は両生類です。
「いばら姫」のところでもお話ししたように、
ザリガニも両生類でした。
その両生のザリガニが妃の願いは成就すると教えてくれたのでした。
水中も生きられ、
陸上でも生きる術を習得してこそ、
子供が授かる訳です。

「池にすむ水の精」に戻ると、
夫と妻それぞれが、
自分の感情(水中)とこの世の成り立ち(陸上)を理解して、
互いが互いの在り方に影響されず独り立ちするまで、
相手を相手と理解できないと読むことができます。

実際の結婚生活に当てはめると、
これがとてつもなく努力のいる段階だと実感するでしょう。
一つ屋根の下に生活していても相手に言葉は通じません。
相手の生き方価値観が承知できません。
お互いすりあわせられるところが見つかりません。
どうしてこの人と生涯を共にすると決めたのか、
そのときの自分が理解できません。
その不如意な思いすべてを投げ捨てて、
感情を味わい尽くし、
地上に生きる術を獲得する。
それがここでは蛙という訳です。

このあとふたりは「羊飼い」になります。
次の段階の自己探求を「羊を飼う」ことで表します。
「狩人」は動物的本能の存在を知ることでした。
(この「動物的本能」という表現は舌足らずで誤解を招くでしょう。
動物たちをみていると分かるように、
彼らは地球と共存しています。
「地球と共存している」という感覚が、
人間より感性豊かとした方が良いかもしれません。)
「羊飼い」は、
「狩人」からその本能を飼いならす段階へ進むことを表しています。
この段階が夫婦単位で行われることはありません。
夫は夫、妻は妻で別々に体得しないといけないのです。

19節と20節の童話の最後のところはとても美しい。
19節では、ふたりがそれぞれに羊飼いとして経験を積んだ後、
お互いが羊飼いであると認識し出会うことで、
ひとりぼっちでないことをうれしく思う気持ちになります。
それでもふたりの特別な関係を思い出すことはありません。
男が笛を吹いて、それを聞いた女が涙を流します。
感情の浄化に涙を流すことができます。
相手を攻めるのではない、
本当の感情の浄化です。
その女の涙をまともに見ることができた男が、
このときはじめて女が自分の妻だと認識できます。

結婚生活で互いに互いの生き方に文句のあるうちは、
霊性磨きに成果は見込めないようです。 
そして話し合いでお互いを確認し合っている間も、
魂磨きの成果は見込めないようで。。。。。
『「何故泣くの?」と羊飼い』が訊けて事態は急転直下の展開を見せます。
「何故泣くの?」と妻に言える男性になってはじめて、
統合がはじまるようです。
つまり成果が現れる。

神社の「鳥居」の説明に「自立」と「受容」の二本の柱があって、
参道を歩けると講座では良く話ます。
それに通じるお話でした。

ここでこの童話の解説をおしまいにしますが、
このお嫁さんとプシケーは自分の考えで夫を救い出していません。
尊敬する存在の智慧をたよりに行動するだけです。
自分が考え自分が計画したことを実行しているのではないのです。
ここの真理に関して今回は触れていません。
この点の大事なところは、
これこそが女性性の最たる特質です。
またどこかでこのことについてお話ししましょう。


posted by バンナイ at 11:57 | Comment(0) | 池にすむ水の精

2016年12月21日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」まとめ

DSC04409.JPG

「池にすむ水の精」が、
結婚生活を霊性磨きと捉えたときの、
成長プロセスを教えてくれているとお分かりいただけたでしょうか。

この童話をはじめて読んだときは、
この童話が夫婦の在り方、
成長の形を教えてくれていると理解はできたものの、
解説に着手できるわけもありません。

4半世紀過ぎた今解説を手がけて思うことですが、
この童話の解説には、
自分の結婚生活と照らし合わせられる歳月が、
是非とも必要でした。

そうは言っても、
これができている自分たちだと自負できる訳ではありません。
これまで夫婦の危機はいくらでもありましたし、
その危機を生んだ問題が解決している訳でもありません。
しかしこれからの道は、
この童話の示すと変わりない道を歩くことになるだろうという自覚は持てました。
それで今後結婚生活を投げ出すことがなければ、
他人からは「野暮の骨頂」の、
「天国にいるような気持ち」をふたりで味わう一瞬もあるでしょう。
この話を実生活で行きつ戻りつしながら、
最後の場面に到達しえる希望は持てています。
それが普遍的無意識といえる童話の持つ力なのだと思います。

フロイトはトラウマを発見しました。
これは20世紀の大発見です。
しかし近年これを受け入れられる人でさえ、
トラウマが原因で、
悩みと迷いの渦にいるという理解どまりです。
自分もトラウマに苦しみ、
その元のカルマという今生の課題に挑戦しているなら、
パートナーも同じくトラウマに手かせ足かせ状態でいます。
(もし、悩みも迷いも無い精神状態を保てているなら、
その方はトラウマを克服したかその影響下に無い訳で、
思い通りの人生を送れていることになります。)

トラウマを理解できた自分の子孫は、
出生に輝きと安心を感じられる人であって欲しい。
この環境づくりが、
トラウマを理解できたものの責任だと、
考えられるところまで到達したいものです。
子孫を輝きと安心の中に迎えるその前に、
その環境を作る理解と実行が人生の目的だという、
これをご理解いただきたいのです。

私たちは残念なことに、
社会的な偉業を成し、
それをもって社会に貢献することが人生の大目的としがちです。
しかしこの「池にすむ水の精」では、
それは「粉ひき」どまりの達成でしかありません。
このさき心の獲物を狩る「狩人」となって、
霊性へ取り組むことが必要です。

人間は本来精神も霊性も肉体も異性を求めます。
それが霊性に適い、
感情(=精神性の状態を教えるもの)の豊かさを育み、
肉体の要求を満足させられた瞬間に、
霊性が満たされる経験をします。

肉体の要求は霊性に適い、
霊性の望みが肉体で満たされていくので、
この感動は霊性を高みに引き上げてくれます。
感動(感情)を感じる心は霊性と肉体をひとつにまとめる要です。
これが心身に宿る愛の不思議です。
こころとからだと魂がひとつに溶けあった感動が愛の姿です。
現代はこの豊かな愛に裏付けされた愛の表現が、
必ずしも妊娠と結びついていません。

これを結びつけられれば、
これが自分の誕生時に自分に起きたことなら、
つまり両親のこころとからだの感動の一瞬が受精を迎え、
自分がこの世に誕生するきっかけとなったと納得できれば、
私たちは自分の尊厳を自分に持つことができます。
健全な自己像を持てれば、
そこにトラウマが入る隙はありません。

このお嫁さんの態度が「アモールとプシケー」のプシケーにつながります。
「プシケー」とは「psyche」。
スペルから推察できるように、
心理学「psychology」の語源になっています。
自己を知る作業程尊くやりがいがある業はありません。

「池にすむ水の精」に話を戻すと、
「粉ひき」ではじまった結婚生活は、
生活の糧を得る力をつけるのがその中心です。
これはサラリーマンが定年を迎えるまでのことです。
つまり引退を迎えることができて、
以後結婚生活は本格的な魂磨きに移ります。
この区分けはかなり乱暴です。
容赦のないところですが、
振り返って夫に収入が少ないとか、
ふたりで働いても生活が楽にならないと嘆く間は、
「粉ひき」止まりの結婚生活となります。
若い間は、あるいは生活費が頭を悩ましている間は「粉ひき」なのです。

「粉ひき」の意味を説明すると、
「粉」はパンの材料ですから生きる上での糧を得ることとなります。
生きる上での糧を求めること。
それで「粉ひき」は糧を得ることに精通できた人となります。
「狩人」は森に棲む動物を狩る人です。
更に森には秘めた才能が隠されているところです。
森の中には地中深くに鉱脈があり、
その才つまり宝石貴石の取り出し方に精通する必要があります。
ちょっと理解しにくい考え方かもしれません。
ここは日本的には、鎮守の森と考えて、
神意を知るところと受け取った方が良いと思っていますが、
この話の出所はヨーロッパなのでそちらに従っています。

簡単にいうと、
「粉ひき」は糧を得ること。
「狩人」は霊性の棲む肉体から生きる意味を学ぶこと。
別な言い方をすると、
本能的な衝動や思いは、
その深くに自分独自の才能が隠れてくれることを知らせています。
それを「狩る人」なので、
「狩人」は自己探求に取り組む人となります。
「粉ひき」から「狩人」への生きる姿勢の移行は、
結婚生活を霊性へのチャレンジへと変化させる欠かせないプロセスです。

結婚生活を霊性発達に役立てる変化変容を、
職業としての「粉ひき」から「狩人」で表します。
しかしここで終らず、
表立った苦境を乗り越えたその途端、
「女はひきがえるに、男はただの蛙に化けます」。
このメタファーをどのように受け取るか、
道半ばの今のわたしの考えを述べるなら、
苦境を乗り越えて、
更に蛙になって
相手を相手と認識できない期間が必要だというのでしょう。
それより寧ろ蛙でいる必要を説いているように思います。
ここを、自主独立の期間と仮定したらどうでしょう。
結婚しているからわたしは相手とつながっていると考えるのは間違い。
互いの独立のカギが「蛙の特性を自分のものにする」ではないでしょうか。

蛙は両生類です。
「いばら姫」のところでもお話ししたように、
ザリガニも両生類でした。
その両生のザリガニが妃の願いは成就すると教えてくれたのでした。
水中も生きられ、
陸上でも生きる術を習得してこそ、
子供が授かる訳です。

「池にすむ水の精」に戻ると、
夫と妻それぞれが、
自分の感情(水中)とこの世の成り立ち(陸上)を理解して、
互いが互いの在り方に影響されず独り立ちするまで、
相手を相手と理解できないと読むことができます。

実際の結婚生活に当てはめると、
これがとてつもなく努力のいる段階だと実感するでしょう。
一つ屋根の下に生活していても相手に言葉は通じません。
相手の生き方価値観が承知できません。
お互いすりあわせられるところが見つかりません。
どうしてこの人と生涯を共にすると決めたのか、
そのときの自分が理解できません。
その不如意な思いすべてを投げ捨てて、
感情を味わい尽くし、
地上に生きる術を獲得する。
それがここでは蛙という訳です。

このあとふたりは「羊飼い」になります。
次の段階の自己探求を「羊を飼う」ことで表します。
「狩人」は動物的本能の存在を知ることでした。
(この「動物的本能」という表現は舌足らずで誤解を招くでしょう。
動物たちをみていると分かるように、
彼らは地球と共存しています。
「地球と共存している」という感覚が、
人間より感性豊かとした方が良いかもしれません。)
「羊飼い」は、
「狩人」からその本能を飼いならす段階へ進むことを表しています。
この段階が夫婦単位で行われることはありません。
夫は夫、妻は妻で別々に体得しないといけないのです。

19節と20節の童話の最後のところはとても美しい。
19節では、ふたりがそれぞれに羊飼いとして経験を積んだ後、
お互いが羊飼いであると認識し出会うことで、
ひとりぼっちでないことをうれしく思う気持ちになります。
それでもふたりの特別な関係を思い出すことはありません。
男が笛を吹いて、それを聞いた女が涙を流します。
感情の浄化に涙を流すことができます。
相手を攻めるのではない、
本当の感情の浄化です。
その女の涙をまともに見ることができた男が、
このときはじめて女が自分の妻だと認識できます。

結婚生活で互いに互いの生き方に文句のあるうちは、
霊性磨きに成果は見込めないようです。 
そして話し合いでお互いを確認し合っている間も、
魂磨きの成果は見込めないようで。。。。。
『「何故泣くの?」と羊飼い』が訊けて事態は急転直下の展開を見せます。
「何故泣くの?」と妻に言える男性になってはじめて、
統合がはじまるようです。
つまり成果が現れる。

神社の「鳥居」の説明に「自立」と「受容」の二本の柱があって、
参道を歩けると講座では良く話ます。
それに通じるお話でした。

ここでこの童話の解説をおしまいにしますが、
このお嫁さんとプシケーは自分の考えで夫を救い出していません。
尊敬する存在の智慧をたよりに行動するだけです。
自分が考え自分が計画したことを実行しているのではないのです。
ここの真理に関して今回は触れていません。
この点の大事なところは、
これこそが女性性の最たる特質です。
またどこかでこのことについてお話ししましょう。


posted by バンナイ at 10:02 | Comment(0) | 池にすむ水の精

2016年12月20日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」20

DSC04412.jpg

長々お付合いいただいた「池にすむ水の精」も、
今回でお話は終了です。
しかし今回で解説をお仕舞いにできそうにありません。
まとめとして次号も解説を続けることにします。

前回、「お嫁さんは何にもしていないのに、
おばあさんの言うなりだったのに」とお話ししたのですが、
しかし本当のところは、
どこかでお話ししたように、
このお嫁さんは人知を尽くして天命を待つことのできた人です。
これができないと結婚生活が魂磨きにはなり得ません。
(注:結婚生活が人によっては離婚で終止符を打つ場合があります。
その場合も結婚生活を魂の選択(=洗濯?)となし得るには、
自分の鏡に相手がもはや映らないと納得する必要があります。
これについてはまたの機会にしますが、
簡単には相手が自分の人生の問題を提供してくれなくなったので、
相手に対して関心がなくなるということです。
つまり好きもキライもなくなる訳で、
離婚へのゴーサインはこの自分の気持ちが証明してくれます。
別な言い方をすれば、
相手が嫌いなうちは離婚はまだで、
課題が残っているので勿体ないことになります。)

お嫁さんは連れ合いとの縁が魂に取って大切だと、
彼との結婚生活を全うしたいと願っていました。
この「全う」は人生を添い遂げると言う意味を超えて、
結婚内容をできる限り実り豊かなものにしたいという意味です。
これが結婚生活を霊性磨きとなし得る大切な基盤です。 
フロイトはここをリビドー(性欲)としました。
彼が言った言葉に霊性と精神性も組み入れるなら、
リビドーは真理を突いています。
心も身体も異性を求めるのは、
霊性のはたらきだというのです。
単に性欲が身体だけの要求だというのではなく、
リビドーという言葉で、
異性への魂の希求を表すならこれは真理です。

それをこのお嫁さんの思いに見ることができます。
生きる真理は、
大事な大事な人生のパートナーと霊的に切磋琢磨できることです。
これこそがこの世の成り立ちですが、
残念ながらここに賛同して下さる方はとても少ないです。

繰り返しますが、
これが人生の神髄です。
霊性を語るのに結婚生活を語らないでは通れません。
この全行程を「池にすむ水の精」が童話にしてくれました。

では、今回扱う最後の話に。

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グリム童話「池にすむ水の精」20
(注:童話本文を引用したところに【】を付けることにしました)


20:【或る晩のこと、満月が大空に輝いて、
羊はもう寝ていました。
羊飼いの男は、隠しから笛を取り出して、
誰でも聞き惚れるような、
けれども、いかにも悲しい唄を吹きました。
笛を吹いてしまってから気がつくと、女が泣きいっています。
「何故泣くの?」と羊飼いが訊いてみました。
「どうもこうもないわ!」と、女が返事をしました。
「あたくしが、笛の吹き納めにこの唄を吹いて、
恋しい恋しいお方のおつむが水の中から出たときも、
こんな風に満月が照らしておりましたの」
 男は女の顔を眺めました。
すると、まるで目隠しの切れが目から取れでもしたように、
この女こそ、自分のかわいいかわいい妻だと分かりました。
それからまた、女の方も男を眺めているうちに、
お月さまがその顔をまともに照らすと、
これが自分の夫だと分かりました。
ふたりは、抱き合ってキスをしました。
 ご夫婦は天国にいるような気持ちだったかしらなんて、
そんなこと訊くのは野暮の骨頂ですよ。】

いままで満月を意識して見るのはお嫁さんだけでした。
ここでやっとふたりが満月を見ています。
しかしふたりは目の前の相手が人生の伴侶であり、
かけがえのない自分の半身、
つまり統合に必要なものの鏡となってくれる、
霊性を持ち合わせた魂の仮の姿だと気付きません。

それに気付くには、
かつてお嫁さんの自分が極限状態の時に、
相手がいなくて哀しんでいることを嘆くだけに停まらず、
それを魂の望みが叶えられないことの哀しみと感じた心に戻って、
嘘の無い自分の思いに気付けたことを確認することでした。
(著者つぶやき:何だか小難しい表現で申し訳ない思いです。)

悲しい唄とはそういう意味でしょう。

ここに至って満月を夫と見るのです。
話の展開にとても大切なところです。
これまでお嫁さんはことあるごとに満月を見て、
大事な行動をとってきました。
月と女性のこころとからだはひとつに働きます。
こころとからだはひとつだと納得するからだを女性は持っています。
もっと正確を期すなら、
身体の変化が月の存在を教えてくれる、それが女性です。
しかし男性のこころとからだは太陽に惹かれるようです。
平塚雷鳥は「かつて女は太陽であった」と故事を引き合いに出して言いますが、
その視点ではなく、
心のはたらきが女性性は月に、
男性性は太陽に導かれるようです。

天空高く運行するこのふたつが、
この世の生のふたつの形(性)をサポートしてくれている事実から、
女性と男性の存在理由を考えましょう。

この世を去ったあの世では、
性の別のない魂の世界に移行します。
この世ではふたつの性が存在し、
そこにわたしたちは自分の魂を入れ込めて、
自分の属す性を生きています。
自分とは違う異性を求め片割れを求めて、
完結に向かって生きていきます。
これが統合に向けた道筋です。

女性は月を生きます。
この女性がパートナーの男性に言葉で精神性を説けば、
それはアニムスにのっとられたおんなとなってしまい、
月を生きることにはなりません。
「あたくしが、笛の吹き納めにこの唄を吹いて、
恋しい恋しいお方のおつむが水の中から出たときも、
こんな風に満月が照らしておりましたの」というお嫁さんの言葉は重要です。
「人生のパートナーと霊的に切磋琢磨できること」とは、
パートナーと真理を議論し合うことではなく、
女性が伴侶に、
伴侶自身の感情をただせる男性に育てていくことがベースになります。
頭で考える男性を、
感情を吐露できる男性に、
あるいは感動を味わえる男性にいざなって、
そこに立てたとき霊的に切磋琢磨していけるふたりになります。

今までこのお嫁さんは夫を助け出すために孤軍奮闘してきました。
ふたりはここに至るまで話し合ってきた訳ではありません。
この童話の大切なところはこうした点です。

夫をとがめ立てするのでもない。
苦労という事実を言い立てるのでもない。
「恋しいお方のおつむが水の中から出たとき」満月が照っていた。
お嫁さんはそう言います。
月の特色は太陽と比べることはできず、
太陽の特色を月の特色の次元で表すこともできません。

その別を持ったふたりが、
自分の羊を世話できたとき、
夫は妻の涙の理由を知りたいと思えるころまで成長できました。
だからふたりはふたりそれぞれの特徴ある存在でありながら、
ひとつの心を持つことができたのでした。

シャンシャン。

次号は粉ひきが羊飼いに変化することを中心に、
結婚生活の成長の段階を解説していきます。

                             ーつづくー

posted by バンナイ at 14:03 | Comment(0) | 池にすむ水の精

2016年12月16日

結婚は修行だ!「池にすむ水の精」19

DSC02838.JPG

思いがけず長々とお付合いいただいた「池にすむ水の精」も、
次回でおしまいです。
物語後半の主役であるお嫁さんは何にもしていないのに、
おばあさんの言うなりだったのにと思われますか。
ここが女性性の本領発揮の部分でしょう。
わたしの思いや考えで動いているのではない、
神さまがそう為さいとおっしゃるから、
それをしたまで。
お嫁さんはこう言うのではないでしょうか。

では、本題に。

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グリム童話「池にすむ水の精」19
(注:童話本文を引用したところに【】を付けることにしました)


19:【 幾巡りかの春が地を割って勢いよく出て来た頃、
男と女は、或る日のこと、
いつもの通り羊の群れを追い立てて外へ出たのですが、
どうかして、向かう前から行きあうことになりました。
男は、遠くに山坂に羊の群れのいるのを見つけて、
そっちの方へ自分の羊を追い立てて行きました。
ふたりは、とある山間で一緒になりましたが、
お互いに分かりませんでした。
それでも、これからはもう今までのように独りぼっちでないことを、
ふたりとも、うれしく思いました。
そのときから、毎日毎日、羊を追い立てるのに、
ふたりは、肩を並べて歩いて行きました。
これといって、格別口をきくこともないのですけれど、
何となく安心したような気持ちになりました。】

前回の終わりで、
「ふたりの胸は、悲しさ恋しさでいっぱいでした。」と、
お互いがお互いを求める気持ちを、
それぞれが自分だけで確認しあうプロセスを過ごしたと、
この物語は言います。
自分の不完全を認めるからこそ相手を求めます。
心にあいた穴を埋めるには、
その穴に合った質を持った、
つまり自分にふさわしい問題を提供してくれる相手が必要です。
それを求めて悲しく恋しい気持ちになります。
結婚したてのふたりではありません。
経済的な困難も克服し、
心の満足を夫ひとりが外に求めて、
その夫を、
現実生活こそが霊性磨きに最も相応しいのだと理解できている妻が、
夫を取り戻したのでもありません。
まだこの段階で妻の結婚生活の目的への理解は不十分です。

彼女は夫こそ自分の片割れだと魂の言うままに動いたのでした。
その後、それぞれが羊飼いを別々になし得なくては、
霊性磨きの結婚生活は続けられないとこの物語は言います。

相手に対する恋心がそもそも自分のどんな動機からはじまっているのか、
その原点に戻れると、
この後続く結婚生活を霊性磨きになし得ます。
時々そのチェックをしませんか。

どんなところが良くてこの人と結婚したのだろうか。
この「良くて」という言葉は軽くて、
ここに相応しくはないかもしれないのだけれど、
現実生活内で考えれば「良くて」は実感を伴います。
誰にも言えないけれど、
ときに「何が良くてこの人と結婚なんぞする気になったのだろうか」、
大抵の人は密かにそう思うものです。
現実味がありますよね。
これが続くと腹帯を締め直す。
丹田に力を入れて、
結婚生活は修業の場なのだと自分に言い聞かせられる訳です。

出会った頭初、
相手に好印象を持ったそこを心の中心に置ければ、
奇しくもそれを求めていま悪戦苦闘している自分に気付きます。
陽性転移した=恋心を持ったそこが目標という訳。

納得がいかない?

わたしですか?
わたしの場合は、
結婚相手に出来上がった人は遠慮しました。
それ相応に社会的地位もあり、
ステータスも持ち合わせている。
そんな人と人生を共にしようとは思えませんでした。
人格的にも経済的にも互いに努力するところが無いのなら、
結婚する意義がないと思ったのです。
これも又わたしの必要を言ったまで。
わたしなりの信念信条を結婚に、人生に盛り込んだつもりです。
ふたりで創造的日々を送りたい。
これがわたしの結婚生活への希望でした。
お陰さまでその線に添った日々を過ごしております(爆笑!)。
創造的であると言うことがいかに難行苦行か、
毎日がその連続です。

なかには霊性を第一義と結婚された方々がおいでです。
毎日を「霊的生活とは相手にどうある必要があるか」を考えている訳です。
考えさせられます。
相手が向けてくる態度に自分がどう反応するか。
自分の霊性の度合いが相手に向ける態度で如実になります。

つまり、結婚相手に自分が必要なことを認めさせたり、
相手を見て自分が相手に取って必要な存在だと確認するのではなく、
自分にとって相手が必要だと気付くまでに、
長い自己探求の時間が必要だというのです。
別々に自己探求をしなくてはいけないとこの物語は言います。
これがこの物語の神髄なのです。
自分にとって相手が必要。
この必要って何でしょう。
実際的に相手の「温もり」でしょうか。
人は人の温もりが必要ということだったらうれしいです。

羊を飼う、羊の世話をするとは、
自分の心の世話全体をいいます。
mind と spirit の世話をする訳です。
互いが自分の心の在り方に責任を持つことの奨励です。
とかく人は、特に夫婦の場合、
相手の在り方に不満を持ち易くなります。
心の中ではじまったちょっとした不満は以後際限なく広がります。
その戒め。

相手の欠点が気になると、
本来自分の心の異性を体現してくれている相手と同じ欠点、
あるいはそれに見合う別バージョンの課題が、
自分にあることを認めがたくなります。
自分の中に相手の要素を見つけるのが苦しく不可能にさえ思えます。
そんなとき、相手の一番嫌なところが、
1パーセントでも自分の中に見つかれば、
それが相手を結婚のパートナーと認める着地点になります。

なんと大変!
なんとみじめ!
これを超えて、相手に見ていた眼を自分を向けていく。
それが「自分の羊」を世話することです。

「ふたりは、とある山間で一緒になりましたが、
お互いに分かりませんでした。」
ここは意味深いところです。
自分の霊性を自分で世話をする大事なことに取り組んでいる人が、
自分以外にいると認めること。
そういう人が世の中にいるのだと認めること。
そういう人の存在を外に認めること。
それができるのは自分の心の世話ができてはじめて、
真の仲間の存在を知ることに繋げられるのでしょう。
その段階を経てはじめて、
格別口をきかなくても説明の要らない安心に到達できます。
この安心があって気付きにつながります。
そこのところは次回に。

                             ーつづくー


posted by バンナイ at 15:57 | Comment(0) | 池にすむ水の精
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