[ 天の鳥船庵だより ブログアーカイブ・2015年1月〜2023年2月 ]

プロフィールに戻る

2022年12月18日

最後の養成講座です。

昨日は天の鳥船庵夢療法家養成講座第20期の最終回でした。
そして2011年から始めた養成講座の最後の日としました。
夢療法家として巣立つにはクライアントをお迎えして実地の面談に臨む訓練が必要です。
5人の方にお願いしてクライアントになっていただき、
面談を行いその会話を逐語訳してケースカンファレンスで面談内容を精査していく講座です。
1日5ケースのケースカンファレンスは講座に出席する全員にとてもハードです。
しかしその分受講者は自分の他人に対する態度が白日の元に晒されるわけで、
生涯最初で最後の裸の経験をします。

この講座は夢の勉強の集大成と位置づけた自慢の講座ですが、
ここで一旦閉めることにしました。
講師の体力的なことも要因ですが、
内容があまりに精緻になりすぎ、
受講者の時代による変化は成熟し、
もっと軽めの余韻ある講座に作り替えたいと思うようになりました。

その変化を後押ししてくれた受講者の面々。
お一人が下さったメールと写真をここにお見せします。


IMG_0290.jpeg
(受講者と講師見習いとスーパーバイザーと講師の記念撮影
みなさん自然な良い笑顔です)


坂内慶子様
アシスタントの皆様
20期の皆様

今日も怒涛の一日でしたが、涙あり感動あり笑ありの時間を一緒に過ごせて本当に素敵な時間でした。もちろん学びの部分では深く、真摯に受け止めなければいけない部分が多くあるのですが、それも愛ある夢からのメッセージと思うと向き合えるかなと思います。こんなに大事なことを教えてくれる講座は他にないなと思います。
そして、本当にわたしには今回の養成講座が楽しくって仕方がなかったです。もちろん現実に直面しなければいけない部分は今日も含め多かったのですが、夢が知れば知るほど面白くて、的確で驚かされます。またこれからも皆様とお会いする機会があることを楽しみに願っています。半年間一緒に寄り添ってくださりありがとうございました。


image5.jpeg
image3.jpeg
image4.jpeg
image.jpeg
image0.jpeg
(修了証書をお渡ししました)

image1.jpeg
image3 (1).jpeg
image4 (1).jpeg
(講座を支えてくださった方々)

image4 (2).jpeg
(来春遠くに引っ越し予定の受講者と記念撮影)

image3 (2).jpeg
(ひょんなことで食事会はセッションルームで行いこんな姿です)


今後の予定は決めていませんが、
時代にあった講座ができることを願って考慮中です。






posted by 天の鳥船庵 at 11:45 | あれこれ

2022年12月12日

桃太郎伝説と4神獣(4)

10日のオープンクラスのテーマは「性は聖なるもの」でした。
11月のオープンクラスは「現在の医療から未来を創る」でした。
毎回オープンクラスはその時の出席者によってテーマが大きく変わります。
それが楽しみであり喜びです。
そして夢が持つピンポイントの指摘を教えてもらうことになります。
2月4日のオープンクラスの申し込みを受け付けています。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

IMG_0260.jpeg
(12月2日の江島神社)


これは続きものです。以前の記事はこちらをご覧ください。
http://dream-art.sblo.jp/category/4560672-1.html


IMG_0261.jpeg
(奥宮)


桃太郎伝説と4神獣(4)

今回から解説に行きます。
福娘童話集「桃太郎」から本文をお借りしました。

(これから下記の様に本文を✿で囲んで話を進ませます)
✿ むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
  おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へせんたくに行きました。 ✿ 

解説:昔話やお伽噺の主人公の親が、
若く元気発剌なことは滅多にありません。
その代表的な例は旧約聖書の創世記に出てくるアブラハムとサラの夫婦です。
アブラハムが100歳でサラが90歳の時に嫡子イサクが生まれました。
アブラハムの享年は175歳ですから現代の寿命とは違っていても老年です。
イサクの誕生は神の啓示が何度もあっての結果でした。
老いたふたりは自分達に子供ができるとは信じていませんでしたが、
啓示通りにイサクは生まれました。
子供の誕生も人生のあらゆる出来事も、
自分の意思ではなく神の思し召しであることを、
身を持って体験していたのでした。
だから後に生贄にイサクを差し出すようにと神の啓示があれば、
それにも従えるほどアブラハムにとって神への信頼は篤いものだったのです。
自分の意思通りに人生を生きるのではなく、
大いなる力とその意志の前に人生を捧げられる強い信念がある人に、
物語の主人公を任せるのが物語の常道です。
このように桃太郎を育てたおじいさんおばあさんもその例外ではありません。
老いているということは、
人生の艱難辛苦を経験しているということと同義語です。
そして我を生きるのではなく思し召しを生きるという姿勢を保てる人が、
主人公の養育にあたります。


IMG_0266.jpeg
(何日か前の天使の梯子)


だから子供を育てる者には叡智が欲しいと物語は諭します。
そこで主人公の親を若くせず年寄りに設定します。
子供を育てるには、
「子供自らの魂が願う生き方を読み取れるだけの忍耐力を持った人物」であって欲しい
という願いがこの物語にはあります。
親が若いと親の我欲が出て親の意向で育てがちです。
親が理想とする人物像や自分が叶えられなかった方向に子供を誘導しがちです。
そこを踏みとどまり、
まずはその子の特性がどういうものか、
何が好きか、
何に興味を持つか、
何をしているとその子の魂が喜ぶか、
どういう時に素直な反応が見られるか、
これらに時間をかけて観察できる余裕と忍耐が欲しいのです。
子供そのものの魂が何を望んでこの地上に生を受けたのか、
それを掬える力量が欲しいということで、
物語は山に柴刈りをするお爺さんと、
川に洗濯をしに行くおばあさんを桃太郎の教育係にしました。

子育ては奉仕です。
育児はボランティアなのです。
この老夫婦は全編を通して桃太郎に意見を言いません。
それも考えてほしいと昔話は老いた夫婦をその役に当たらせたのでしょう。


IMG_0264.jpeg
(昨日の富士山)


繰り返すと、
子育ては、これから成長していく子供の魂の願いを、
掬い出せる者でなくてはいけないのです。
物語はそこをはっきりさせて老成した者を教育者にします。
物語全編でこの親代わりを務めるおじいさんおばあさんは桃太郎に指示を出しません。
育てる側の我欲を傍に置いて、
子供の特性に注意を払える者こそ親の資格があると物語は言っているようです。
そして育てる者の生き方・生きる姿勢も問題にしています。
このおじいさんとおばあさんは自然と調和して生きています。
おばあさんは川へ洗濯に行きます。
このたった1行を説明するには膨大な文章が必要かもしれません。
わたしたちは近代文明依存型の自然に敵対した形をとった生活をしています。
それとは真逆の生活理念を問われています。
生活の全てを支える水が身近にあって、
日用にすぐに役立つ環境が子育てには必要です。
少なくとも水の大切さや扱いに気を配れる心構えが女性の親の側に必要なのです。
それも飽きずに毎日心と体と身の回りの「洗濯」に励むこと。
それができること。
では男性の親に求められる特性はというと、
「柴刈り作業で生計を立てられる者」です。
「柴刈り」の「柴」とは、山林の中の枯れ枝のことを指します。
昔枯れ木倒木をかき集め、それを街に売り歩いて生計を立てた人がいます。
余談ですが、
以前小学校の庭に建っていた二宮金次郎像は、
この枯れ枝を集めて背負っている姿です。
柴刈りをして生計を立てるお爺さんは、
自然を壊さず自然のお零れ(おこぼれ)で生活をするという心構えの表れです。
いまや絵に描いた餅にもなり得ないほどわたしたちとっては遠い理想の生活かもしれません。
わたしたちは都会に密集して建つビルに寝起きし、
自然の磁場とは遠い生活をしています。
人と人が触れ合う距離は近すぎて、
それとは反比例するように人と人の心が触れ合う距離は遠くなりました。 ―つづくー


IMG_0270.jpeg
(12月12日の富士山)


posted by 天の鳥船庵 at 17:59 | 桃太郎伝説と4神獣

2022年10月30日

桃太郎伝説と4神獣(3)


11月12日と12月10日のオープンクラスに空席あります。
ご興味のおありの方はご連絡ください。


IMG_0228.jpeg
(1週間ほど前急に寒くなった日。前日まで富士山に冠雪は見られませんでした。)


この話は、大変遅くなりましたが、
「桃太郎伝説と4神獣(2)」http://dream-art.sblo.jp/category/4560672-1.html
の続きです。


では、昔話「桃太郎」の解説をはじめる前に、
何故「桃太郎」なのかを考えましょう。
「太郎」という男性名の前に「桃」が付いているその理由を考えないと、
考察は片手落ちだと気付きました。
そこでまずは「桃」の意味を考えます。

「桃」で日本人が最初に思い浮かべるのは「桃の節句」でしょうか。
「桃の節句」は「ひな祭り」の別名で、
今では女の子が3歳を迎えることができたお祝いです。
陰暦3月3日には桃の花が咲くことから「桃の節句」と名前がつけられました。
「節句」は古代中国の陰陽五行説を由来として日本に定着した暦で、
その内の5つを江戸幕府が公的な行事・祝日として定めました。
それが人日(じんじつ)、上巳(じょうし)、端午(たんご)、
七夕(しちせき)、重陽(ちょうよう)の五節句です。
人日は1月7日の七草の節句、
上巳は3月3日の桃の節句、
端午は5月5日の菖蒲の節句、
七夕は7月7日の笹の節句・七夕(たなばた)、
重陽は9月9日の菊の節句となります。

後に、3月3日は女の子のお祝い日となり、
5月5日は男の子のお祝い日になりました。
ここで話題にする「桃太郎」という男の子の名前に、
「桃」が使われているのは何か深い意味があるはずです。
漢字「桃」の「兆」は象形文字で左右二つに離れるさまを表します。
つまり「木」+「兆」で実が2つに割れる木を意味します。
2つに割れることはめでたい兆しとされ、
「桃」の字が作られたようです。
正に桃の木のことで、
「桃太郎」は桃の木の実から生まれた人としての存在を表しています。
また「兆」は「きざし」です。
何かが起こるしるしです。
それは「吉兆」なのだという印です。
この地球の要素で造られた、
命の木、その実から生まれた人間が、
この人生で冒険をする。
その意味が「桃太郎」に込められています。
卑近な表現をすれば、
「人生の目的に沿って冒険をしなさい。
そのための人生なのだから叶えられないはずはない」。


IMG_0235.jpeg
(ススキ全盛)


では、ひな祭りが桃の節句と呼ばれるもう一つの理由を考えましょう。
桃の花の季節だから、「桃の節句」。
また桃には百歳(ももとせ)まで生きられるようにという
不老長寿の願いも込められていました。
しかしそれだけではなく、桃には邪気をはらう力があるといわれています。
鬼退治に行くのが「桃太郎」なのもそのためです。
もともと邪気を払う目的の上巳の節句が
「桃の節句」と呼ばれるようになったのも、自然な流れといえるでしょう。
邪気は鬼なのですから。
中国には長く「三柑の実」が吉兆を表すという考え方があります。
「桃・橘・柘榴」の三つの実が縁起の良いものという考え方です。
橘はみかん類を指すようで、橘に限ったものではないようです。
三柑の実である桃とみかんと柘榴の絵は陶磁器にも古くからあり、
女性の美と健康と多産を叶えるものの象徴として尊ばれてきました。
これは土の養分(土の気)を吸い上げ、
太陽の光(火の気)を浴びて、
雨(水の気)を受け、
木(木の気)が成長し、
その木に実った果実こそが豊かさ(金の気)となった証をいいます。
五行説そのものです。

更に「桃源郷」という言葉も中国にあります。
陶淵明(とうえんめい)の「桃花源記(とうかげんき)」に、
ひとりの漁師が桃林の奥に、
戦禍を逃れた者たちが肩寄あって暮らす村を見つけたというお話です。
ここから、「桃源郷=理想郷」という言葉になったという訳です。

そこで最後に「桃」といえば古事記です。

イザナギが黄泉の国に旅立ったイザナミを慕って会いに行きます。
黄泉の国からいざ帰ろうという段になって、
イザナミに「決して振り返らないように」と頼まれたにもかかわらず、
イザナギは好奇心に駆られてイザナミの朽ちた姿を見てしまい、
怒ったイザナミはイザナギを追いかけます。
その時イザナギは桃をイザナミに投げかけ、
無事逃げおおせたという有名な話があります。
ここから桃という果物の栄養成分が、
肉体細胞を活性化するらしいという話を読んだことがあります。


IMG_0238.jpeg
(同じ日の日没)


「桃太郎」の「桃」をざっとみてきて、
一番考えさせられたことは、
「桃」という漢字の成り立ちでした。
桃太郎物語の絵本をみると、
どれも実が二つに割れて仁王立ちしている桃太郎の勇姿が描かれています。
解字そのものが絵になっています。
これは実を割って出てくるもの。
それが一番ということです。
つまり自分の内側から出てくるもの。
それが一番ということです。

さて、和尚(OSHO)の「秘教の心理学」に「夢の心理学」の章があります。
これは夢に取り掛かるととても魅惑的な説で、
理解するのも難しいのですが、
ここに来てやっと和尚を理解するとっかかりを掴めたように思います。
それで和尚にとっての夢を簡潔に言えば、
「私たちには七つの身体がある。
物質体(フィジカル)、精気体(エーテル)、星気体(アストラル)、
精神体(メンタル)、霊体(スピリチュアル)、宇宙体(コズミック)、
涅槃体(ニルヴァーナ)だ。
それぞれの身体には特定のタイプの夢がある。」と、解説しています。
これに沿って七つのボディの夢の解説が続くわけですが、
その中
で、第六の宇宙体の説明に、
「(ここには)真如がある。
いまやなにも実在しないが実在がある。
ものごとはないが、源がある。
木は存在しないが、種子はある。」とあります。
この和尚の言葉と「桃太郎」がわたしの中では結びついたのです。

わたしたちは神の分霊として存在していますが、
常に神と繋がっている存在証明が夢に存在すると和尚は言うのでしょう。
桃がここまで壮大な話になるとは予想しませんでしたが、
ここに辿り着いてみると不思議なことは何もありません。
一時期「桃太郎」は戦意高揚のプロパガンダに使われました。
敵は外にいたのです。
しかし桃太郎の真の戦いは、
自己を知ることの冒険物語です。
敵は外ではなく内にいます。
そこで使える武器は家来の犬と猿と雉子になります。


IMG_0241.jpeg
(伊豆半島の付け根に日が沈んでいきます。)


という訳で、やっとここで次回から物語の解説に入れます。
尚、和尚の「夢の心理学」についていつかわたしなりの解説をしたいと考えています。
ご期待ください。




posted by 天の鳥船庵 at 16:29 | 桃太郎伝説と4神獣